/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/
藤原家支配が進む持統天皇のころ、柿本人麻呂は、早くも無常観を歌に残している。「もののふの八十宇治川の網代木に いさよう波の行方知らずも」(『万葉集』巻三264、「もののふの」は八十の枕詞だが、もともと多くの官吏を意味する)、「巻向の山辺響(とよ)みて行く水の みなあわの如し 世のひと吾(われ)は」(同巻七1269) 同様に、山上憶良もまた、「すべも無く 苦しくあれば 出で走り 去(い)ななと思へど 子らに障(さや)りぬ」(同巻五899)と厭世を歌う。また、次の聖武天皇の時代には、大友旅人が「世の中は空しきものと知るときし、いよいよますます悲しかりけり」(同巻五793)と詠んでいる。
これらは、仏教的な無常観か。柿本人麻呂の生涯については不明な点が多いが、山上憶良は701年の遣唐使に下級官吏として随行している。当時の唐は、則天武后(624~帝90~705)の時代であり、みずからを弥勒菩薩の生まれ変わりと称して、それまでの道教に代えて仏教を国教とし、北宗禅に帰依。その長、神秀(じんしゅう、606~706)が「長安・洛陽両京の法主」「三帝の国師」として権勢を極める。則天武后はまた、華厳宗も庇護し、法蔵(644~712)がその教学を大成する。たしかに、すでに西方から浄土思想が唐に入ってきていたとはいえ、それは阿弥陀如来を体得する観想念仏の三昧(瞑想)修養法であり、厭世的無常観ではなかった。
つまり、人麻呂、憶良、旅人らの厭世は、当時の仏教とはどう見ても関係が無く、むしろ、藤原家や寺院勢力の強引な専横によって政治の中枢から排され、あちこちの地方への赴任を命じられて、不遇の一生を託った一般官吏たちの嘆きであり、次はどこへ飛ばされるかも知れぬ、かといって、家族を養うために離職出奔もできない、みずからの身上そのものだった。ここにおいては、無常は自分そのものであり、無常を世ごと人ごととして距離を置いて観じる余裕は無い。
逆に言うと、彼らの厭世的無常観は、藤原家や寺院勢力に支配されたこの時代の官吏に特有のものであり、一般庶民にとってもまた、まだ無縁のものだった。頂点の支配者がだれであれ、また、官吏たちが入れ替わり立ち替わり飛ばされてこようと、憶良の『貧窮問答歌』(『万葉集』巻五892-3)に見られるように、恒常的に虐げられていた。「斯くばかり すべ無きものか 世の中の道 世間を憂しと優しと思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」 ここでの「すべ無し」は、先の宮仕えにおける選択の余地の無さどころか、家族を養うこともできない生活そのものの硬直した行き詰まりを表している。これなら、いっそ無常であった方が、どれほど希望があったことだろうか。
歴史
2022.01.21
2022.06.19
2022.07.03
2022.07.16
2022.07.21
2022.10.27
2023.06.06
2023.07.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。