/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/
一方、南インドでは、バラモン(特権知識人)のナーガールジュナ(龍樹)が『中論』で空の哲学を説いた。彼は、説一切有部が基礎とするような不変不滅の諸要素の存在をも否定し、それ自体をも所縁に拠る、と考えた。ただし、その真実相は掴みどころが無く、かといって、概念で考察する世俗相は帰謬することから仮のものにすぎず、それゆえ、「中観」(判断中止)に留まるべきである、と主張。彼の哲学がその後の新仏教の大きな根幹となるが、彼はあくまで実践的な自然哲学者、錬金術師であって、彼自身が仏教を信奉していたかどうかは怪しい。
また、中国では、後漢の中央政府が宦官官僚たちに乗っ取られ、地方ではこれと結びついた豪族が独立領主化して、貧富格差が広がる。このため、庶民の間では道教系の太平道や五斗米道などの新興宗教が流行し、184年の黄巾の乱をはじめとして、各地で反乱が起きて、いわゆる魏呉蜀の三国志の戦乱時代へ突入。そして、280年、いったんは、晋によってどうにか統一される。
このころ中央アジアでは激変が起きていた。四世紀、カスピ海北岸にいた、疾走する騎馬で襲撃略奪する北方の野蛮な匈奴フン族が急拡大。その影響で、東の中国でも騎馬傭兵の独立と抗争が生じ、316年に華北が五胡十六国に分裂。また、匈奴フン族は西進して、ゲルマン人の大移動を引き起こすとともに、南下して、すでにサーサーン朝下に入っていた旧クシャーナ朝領を侵略し、エフタルを建国して、北インドのグプタ朝をも圧迫。多くの人々が亡命を強いられることになる。
384年、西域の羌族が華北の長安市を乗っ取って後秦を建て、401年、カシミール(ガンダーラ東の高地)に留学した同族の鳩摩羅什(クマーラジーヴ、344~413)を迎え入れる。彼は、簡潔な意訳漢文で仏典を訳し直し、これが「旧訳(くやく)」として、その後の中国仏教の基礎となる。ここにおいて、彼は、「古訳」の道教・儒教的曲解を排する一方、インドの古いバラモン教の原義に戻す代わりに、西方で最新のアミターバ信仰やナーガールジュナ哲学を大仰に紹介して紛れ込ませ、それこそが仏教の真髄であるかのように広めた。
アミターバ信仰とナーガールジュナ哲学は、相性が良かった。というより、セットで導入する必要があった。というのも、ナーガールジュナの不定形の自然哲学を取り込むと、所縁を成り立たせる諸要素まで所縁の現象としてしまうために、すべてが刹那の出来事に帰され、死を越えて次の生まで魂とその業を継ぐものが想定できなくなってしまったから。だから、死後を引き受けるものとして、極楽浄土のアミターバ信仰が継ぎ合わされた。
哲学
2021.03.12
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2022.04.14
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。