/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/
この行住坐臥の「壁観」、壁の想念を心に焼き付け、みずから壁になって生きる禅定は、もはやいわゆる座禅ではない。バラモン教・仏教の「観(ヴィパシヤナ)」の修養法を知らず、文字面だけから「壁観」を、壁を観る、と誤解して座り甘んじていると、達磨は立って逃げ去ってしまう。
3 インド仏教から中国仏教へ
少林寺の達磨の下に慧可(487~593)が訪れ、雪の中、みずから左腕を切り落として決意を示し、弟子入りを認められた。これは、僧兵養成の少林寺にあっても武術はやらない(達磨に対する梁の武帝のような誤解ではない)、仏道に専念することを意味したのだろう。ほかにも何人かの弟子がいたようだが、536年、この慧可に後が委ねられ、禅宗二祖となった。また、559年、これに僧璨(c500~605)が弟子入りして、後に三祖となった。
慧可は、師の達磨に、修行の不安を癒やしてほしいと願った。達磨は、では、その不安を持ってこい、と言う。それに対して、慧可は、それが見つからない、と答えて、自分自身で、そんなものは最初から無い、ということに気づいた。また、僧璨も、全身のつらいアレルギーは前世の罪のせいだ、と悩んでおり、それで、師の慧可に、その罪を払ってほしい、と願った。それで、慧可も、それなら、その罪を持ってこい、と言って、僧璨もまた、そんなものは最初から無い、ということに気づいた。このように、禅宗は、インド的な旧仏教が強迫的に作り出していた心気症(病気だと思う心の病気)を否定解消する、言わばその洗脳解きとして最初の一歩を踏み出す。
しかし、このころ、そんな自縄自縛の信心深い者ばかりではなく、徴税逃れのために信仰を口実にしてかってに逃散する者が続出し、彼らを囲い込んで寺院は、私領荘園を拡大、僧兵武装を強化。北周武帝(543~帝60~78)は、574年、傭兵となって反乱を助長する仏教や道教を禁じて寺院や僧侶道士の財産を没収。その一方、真正の僧侶道士120名は官任として保護した。
この廃教政策を避けるべく、慧可や僧璨は南の長江の方に逃げた。また、南朝の首都、南京市にいた智顗(538~98)も、575年、長江下流の天台山に籠もり、鳩摩羅什の旧訳仏典を研究し、一切衆生は等しく成仏し救われるという、仏教の中で長年をかけて醸成されてきた大乗思想の『法華経』を中心として多くの仏典を体系的に位置づける独自の理論を構築していく。
哲学
2021.03.12
2021.04.05
2021.07.29
2021.10.20
2021.11.13
2022.02.16
2022.03.08
2022.04.03
2022.04.14
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。