/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/
676年に六祖慧能が南宗禅を建てた後、懐譲・石頭、馬祖、南泉・百丈、潙山・趙州・徳山ときて、弟子の第五世代にあたるのが、仰山(ぎょうざん、804~90)と洞山(とうざん、807~69)。仰山は、湖南省の密印寺で潙山に弟子入りして、不立文字を徹底。誠心誠意、ただ喰って働いて寝ることのみに努めた。洞山も、いったんは潙山に弟子入りをしたものの、命あるものを越える華厳経的な天地自然の理法に関心を深め、石頭の弟子筋で、長沙市東南50キロのところに庵を構えていた雲巌の下に送られ、そこで川に映る自分を見て、天地自然の「仏声」を全身で聞くようになった。
ところで、そのころの唐の政治は、結託する中央宦官官僚・地方士大夫(豪族官僚)にぎゅうじられており、九世紀にはいると、連中は利権の奪い合いで激烈な党派争いを繰り広げ始めた。ここにおいて、当時隆盛したという仏教大寺院も、じつは彼らの脱税蓄財機関としてであって、名目上の寄進荘園として彼らの私有地への課税を免除させ、巨大な仏像や多様な仏具も、金銀銅などの通貨貴金属を彼らが大量に溶かし隠し持つ手段にすぎなかった。おまけに、仏教大寺院は、城郭要塞のように堅牢な伽藍の中で僧兵ミリシア(私設武装組織)を養成保持し、これを傭兵として貸し出して、宦官・士大夫の紛争を助長した。
840年に即位した第十八代武宗(814~帝40=46)は、帝位を争った叔父が仏教勢力を背景としていたこと、西のチベットで仏教勢力が政権を乗っ取ってしまったこともあって、朝廷において仏教勢力とつながる宦官勢力を排して81名の道教道士で固め、845年、「会昌の廃仏」として、仏教ほか、マニ教などの東方異教を禁止。これによって、寺院だけでも4600ヶ所以上、専従僧尼行人あわせて40万人以上、総寺田面積千平方キロメートルが廃されたとされ、いかに当時の仏教(=秘密銀行)が異常に膨れ上がっていたか、よくわかる。
しかるに、禅宗もこの廃仏の影響を受け、潙山の長沙市密印寺なども閉鎖され、潙山本人も還俗させられた。だが、その弟子の仰山らは、仏典も仏像も不要なので、身ひとつで仲間たちと長沙市から東南へ百キロ、百丈の郷導庵の西南百キロの奥深い山中に隠れ、そこで作務行禅の百丈清規に従って耕作開墾し、自給自足の生活を送って難を逃れた。また、徳山は、長沙市の西北百キロ、軍事要塞の太浮山に籠城。なお、この間、趙州はもとより一所に住せず、洞山もまた天地自然と同化し、どちらも皇帝の威の及ぶところではなかった。
哲学
2021.03.12
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2022.04.14
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。