/〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/
はじめに
バウムガルテン。《美学》の嚆矢として、どの教科書にもかならずその名が載っているにもかかわらず、その解説となると、どれもはなはだ心許ない。これは日本だからではなく、世界でも同じだ。なぜこんなことになってしまっているのか。
まず第一に、これが古いラテン語で書かれていること。第二に、とてつもない大著なくせに、結局、未完のままで、全体像がわかりにくいこと。第三に、バウムガルテンが依拠していた幅広い古典教養(煩雑回避のため、彼はこれを本に書かず、講義で口頭で説明していた)が見失われ、芸術と科学が分断されたこと。
くわえて厄介なのが、新カント派以降の大学哲学の定式化で、術語にカント的な解釈がこびりつき、また、なまじラテン語と似た現代欧米語が多いせいで、その現代語の意味でラテン語を読んでしまうこと。ことに日本では、古い仏教語を転用して妙な哲学語を確立してしまったために、よけいややこしい。
たとえば、「修辞学」。漢語としては、言葉を飾りつける学、という意味だが、西洋古典の伝統からすれば、レートリケー(ρητορική)は、演説術学、広く人々に語りかける方法、を意味する。また、アリストテレスの著作として知られるポイエティケー(ποιητική)も、作る(ポイエオー、ποιέω)術、つまり、創作術学という広い意味で、実際には演劇創作が論じられているにも関わらず、詩(poem)や詩人(poet)という現代英語に引っ張られ、「詩学」などという訳が定着してしまっている。
そもそも、「美学」の名からしてそうだ。今日、エステサロンなど、現代語でも広く使われているが、原語の「Aesthetica」は、ただ、感覚(αἰσθητός )の術学、というだけで、美という意味は含んでいない。
バウムガルテンを《美学》の嚆矢とする、ということからして、じつはかなり怪しい。彼の美学は、キケロやホラティウス、アルベルティらの《演説術学》や《創作術学》の系譜に乗っており、その前提抜きには理解できない。だから、バウムガルテンがわからない、という問題は、一つの著作、一つの学者の文献を徹底的に読み込んで、その内的連関を理解し、その学者のイタコ的専門代弁者となる、という、近代の「タコ壺型哲学研究」の限界を指し示すものでもある。
じつは今年度、大学のゼミで一年間、この『美学』を講読した。成城や玉川、東大や藝大と不思議と御縁のある松尾大(ひろし)先生が1987年に翻訳なさって以来、これに深く関心を寄せ、『エンターテイメント映画の文法』2005を上梓。しかし、これがバウムガルテンの顰みであることを御理解いただけたのは、松尾先生だけだったのではないか。そして、この数年来また、バウムガルテンを参考に、物語の創作術学、とくにそれが内包するイメージの《論理学》に関する研究を続けている。しかし、学生たちとあらためて読み直すと、数々の気づきがあったので、忘れないうちに、それをまとめておこう。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。