/〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/
これに対し、スピノザは、『エチカ』1677などで、《物心並行論》を唱えた。世界の物事と、心の思念は、それぞれ同じ神を反映することで、接触無しに並行一致する、というその考えは、世界というマクロコスモスと、人間の心というミクロコスモスの合理性の相同性に基づく。そして、ライプニッツは、『モナド論』(出版1720)で、これをさらに拡張し、〈理性〉を持つ心は、「窓」無しに、マクロコスモスの様相を内的に反映し、また、相互にも調和する、とした。つまり、心と心も、接触無しに、以心伝心で、その思念を共感できる、ことになった。
では、〈理性〉無き犬畜生などはどうか。ライプニッツは、〈理性〉の代わりに、記憶との類似だけで、ただちに過去の感情を惹起させる連想メカニズムを備えている、とし、ヴォルフは、これを「疑似理性(analogon rationis)」と呼んだ(『理性的心理学』1734)。これは、ヒュームの言う「恒常的連接(constant conjunction)」の〈連想〉と同じものだろう(『人間本性論』1739)。ただしこの思念の〈つながり〉は、合理的な因果ではなく、あくまで、つながりの主観的な信念にすぎない。
すでに、世界と万人に同一共通の〈理性〉に基づく真理の発見方法、《論理学》は、ほぼ完成している。となると、哲学百科事典としてその大系をめざすバウムガルテンに課せられた問題は、それ以下の雑多なものを扱う「下位認識能力(facultas cognoscitiva inferior)」全般の解明であった。しかし、その対象は、外的な感覚や知見のみならず、内的な想像や洞察、記憶、予見などをも含む。彼は、これらを、〈思念(cognitio)〉と言い、さらにラテン語より古いギリシア語を引っ張り出してきて、〈感識(アイステーシス、αἴσθησις)〉と呼んだ。今日的な言葉で言えば、広く「イメージ」というのが適当だろう。
(「イメージ」は、本来は、似姿、という意味である。しかし、思念にせよ、感識にせよ、何かの物事についてのもの、という志向性があり、それにバウムガルテンは着目しているので、似ているかどうかはともかく、何かの物事を内的にイメージする、という意味で、この訳語であながち外れてはいまい。)
バウムガルテンの企図:イメージの論理学
今日、日本で「美学」と訳されている原語は、Aesthetica、すなわち、広く、感識(イメージ)の術学、ということ。当時、《科学革命》の時代にあって、世界の実在、〈である〉物事の領域の研究が大々的に始まっていた。これに対し、バウムガルテンは、むしろデカルトが世界の物事以上に実在的であるとした心の思念、〈と思われる〉物事の領域、心の中のイメージの世界を研究しようとした。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。