/〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/
ただし、これは、これまでの四つ階梯のチェックを経て、説得する側が、論理的に真である、ないし、感識的に美である、と信じている物事のみ。また、ここでも、「修辞学」の趣巧が証示(証明)に利用されることになる。それにしても、もはやここでは美の問題、美しくイメージすることは、どこかに行って、観客の心を新しいイメージで染め直す話になってしまっており、まるで広告代理店のようだ。
書かれなかった『美学』:イメージ生命
ここで『美学』は唐突に終わっており、もくじに予告された第二部「配置論」や第三部「表現論」はもちろん、第一部第七章⑥「イメージ生命」も存在しない。では、イメージ生命、とは何だったのか。第一章(§26)によれば、それは、〈感動させる証示(argumenta moventia)〉ということになっている。しかし、感動させるとはどういうことか、についての記述は、これ以上には無い。
総じて、バウムガルテンの『美学』は、壮大な失敗作だった。《論理学》に倣って真理に代えて美を基準とし、美なるイメージの抱き方に議論を限定してしまった最初の前提で、本来の課題であった、イメージを抱く下位認識能力の一般論は、放棄されてしまっている。また、「修辞学」の趣巧(figura)を、混成イメージの証示(argumenta)として取り込む、というアイディアは悪くないが、そのせいで、言葉や絵画、音楽以前のイメージそのものという研究対象の概念が、既存の演説など、言葉の実例に引っ張られ、議論としてぼやけた。くわえて、《論理学》に代えて《演説術学》の構造を転用したせいで、真理に代わる美という絶対的評価基準が、後半に至って、いかに効果的に自分の持つイメージを観客に植え付けうるか、へ横滑ってしまった。
しかし、この批判的な見方は、彼の『美学』を、能力の理論、または、芸術の技法、と捉える読者側の思い込みから生じてはいないか。第二巻に至って、美しいイメージを観客に伝えるという展開を示し、それが第七章⑥「イメージ生命」でまとめられるのであれば、そもそも『美学』は、能力の理論でも、芸術の技法でもない、もっと別の問題を描写しようとしていたのではないか。
じつは、第一巻では、第三章②「感識術的な偉大」が、その過半を占める中心課題となっている。つまり、美しいイメージ、というものは、その完全性の条件として六つが挙げられていたものの、その美しさの核心は、〈偉大さ〉にある。ただし、そのマッチングの問題から、偉大なイメージは、偉大な者にしかふさわしくない。それゆえ、ここでは、第一章の後半で述べられたような、天賦の才に恵まれた者は、幸いだ、とされる。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。