/〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/
しかし、イメージなどというものは、主観的で雑多すぎる。これに理性の《論理学》を、そのまま当てはめて、その真偽を論じて済ますことはできない。そこで、それを術学とするに当たって、バウムガルテンは、正しい、ないし、良いイメージの基準として、美を立てた。つまり、理性による知識の術学、《論理学》が、〈真理〉を基準とするように、感性(感識の能力)によるイメージの術学、《感識術学》は、〈美(プルクリチュード、pulcritudo)〉を基準とする、とされた。
ここから、《感識術学》は〈美〉の学ともなった。ただし、これは、美しいモノの解明ではない。自然の風景美も、芸術の作品美も、とりあえず直接には関係が無い。ここで問題なのは、あくまで内的な感識、「美しく思い続けること(pulcre cogitando)」としての、イメージを想念する〈美〉である。
では、彼の言うイメージの〈美〉とは何か。彼によれば、それは、完全(perfectio)、であり、協感(consensus)が成り立っている、とされる。しかし、となると、それは必然的に複数の部分(pars、要素や色合)を含む混成(コンフーサ、confusa)である。(ただし、コンフーサは、英語に引っ張られた混乱というような否定的な意味はなく、協感ということと矛盾しない。)この混成がうまくいっているとき、そこに協感が成り立ち、イメージは、複合的ながら、統一され、完全なものとなる。
彼は、《感識術学》は、理性の《論理学》の下位のものになると考えていたが、先述のように《論理学》はすでに精緻厳密化しており、その対象は、〈明晰判明(clara et distincta)〉でなければならない、とされていた。だから、明晰であっても混成である美しいイメージの考察に、そのまま《論理学》は使えない。
(〈明晰〉とは、言及対象が明確であること。〈判明〉とは、その言及対象が何であるか、単純であること。とくに後者が日本語訳ではわかりにくいが、tinguoは、チントやインクの語源であるように、染める、ということ。したがって、dis-tincta というのは、他のものに染められていない独立単色のもの。逆に言うと、コンフーサは、複数のもので染まり合っている、ということになる。)
そこで、彼が《論理学》に代えて持ち出してきたのが、《演説術学》だった。それは、紀元1世紀の教育家クインティリアヌスによって体系的にほぼ完成し、宗教改革で論争激しい1500年ころ、エラスムスらがこれを活用。その後、学生の基礎教養である自由学芸七科目の一つとなるも、上位の哲学がこれらの中で、マクロコスモス(世界)の〈理性〉とミクロコスモス(人間)の〈理性〉の同一共通性を探究する《論理学》を重視し、また、絶対王政下にあって民衆に演説する機会も無かったために、《演説術学》は脇に追いやられ、くわえて、おりからの小市民ロココ的な収集分類趣味によって、これまでの演説の諸趣巧(figura)の収集分類に矮小化され、いわゆる「修辞学」に堕していた。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。