/〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/
そもそも、彼がイメージと言っているものは、どんなものなのか。それは、表現や配置以前の着想段階でひらめいたアイディアであり、言葉や絵画、音楽などの記号化以前のもの、それどころか、順序や配置さえ未分化の無時間的な原型である。あえて説明すれば、ワンアクションの語り画のようなキーコンセプト、たとえば、乞食が王女を救う、とか、運命が扉を叩く、とか。ただし、このワンアクション・アイディアそのものが、すでに複数のイメージの混成であり、バウムガルテンは、通俗的な「修辞学」の〈語り趣巧(figura dictionis)〉も、その本質は感識の混成における〈感じ趣巧(figura sententiae)〉である、と見なす。
そして、本論に当たるのが、第二章以降。ここで、①豊富、②偉大、③真実、④明晰、⑤直明、(そして、書かれなかった⑥生命)が、それぞれの章で論じられる。のだが、この六つがどこから出てきたのか、どうしてこれらがあればイメージが完全で美しいと言えるのか、そもそも、これら相互がどういう関係にあるのか、総論的な説明が第一章第一節の羅列以外に無いのだ。ただ、どうもこれらは、イメージを美しくする並列的条件、というわけではなさそうだ。わざわざ、これらすべてに「感識術的」と付されていることからして、感識術を用いて素材を美しくイメージするに当たって順にチェックしていくべき階梯、と見なすべきだろう。
となると、六つの階梯は、そのアイディアの良否美醜の可能性の着想・吟味・洗練の方法、ということになる。ここにおいて、着想や吟味、洗練の作業という展開のせいで、本来は無時間的(作品としての表現の順序配置以前の)なアイディアそのものが時間的に展開しているかのような誤解を生じやすい。
また、ひらめいたアイディアからして、複数素材の混成であるだけでなく、くわえて感識者のイメージ化の仕方の影響も受けている。だから、そのアイディアは、《論理学》が扱うような客観的に自立している判明(distincta)な対象ではなく、混成素材がさらに感識者によって染められたもの、つまり、二重の混成(confusa)であり、バウムガルテンによれば、むしろそれらの素材の選び方や、感識者のその染め方にうまく協感が成り立つかどうか、が良否美醜の決め手となり、ここに多面的で交差的なチェックが必要になる。
さて、この六つの階梯において、まず最初に、このワンアクションのアイディアが、そこの中に混成として詰め込まれるべき多種多様なイメージのキーコンセプトとして使えるかどうか、が問われる。それが①豊富のチェックだろう。ここにおいて、バウムガルテンは、理性の厳密な〈論理的地平(horizon logicum)〉に対し、連想(疑似理性)の寛容な〈感識的地平(horizon aestheticum)〉を置く。それは、どんなイメージをも混成として含みうる、もっとも豊富な感識領域そのものである。(内包的な豊富と違って、連想によるイメージの外への演繹的な多産は、次の②偉大の要件のひとつとなる。)
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。