/人権は、『世界人権宣言』で決議された達成すべき努力目標。しかし、人の権利は、我々がそれを尊重するという義務によってしか実現しない。おまけに、人権論の根底には、市民権論、実定法論、自然権論の違いがあり、くわえて、現代社会はもはや自由や平等の調整の余地を失ってしまっており、簡単な問題ではない。/
人権週間だ。ところが、このコロナ騒ぎで、世間の話題にもならない。しかし、むしろこのコロナ騒ぎであらたに、患者やその家族、医療従事者、さらには外国人というだけで彼らを差別する人々が出てきた。それどころか露骨な暴力さえ、世界中で蔓延し始めたと言う。だが、明日は我が身、ということがわかっているのか?
そもそも、人権って? 人それぞれ、なんて、もっともらしいことを言って茶を濁す? 人権がなんであるかは、1948年12月10日に『世界人権宣言』として国連で決議されている。それにちなんで毎年12月10日が「世界人権デー」。そして、この宣言、全30条に書かれているものが「人権」。
とはいえ、わりとぐちゃぐちゃな構成で、反差別と生命の安全に始まり、奴隷・残虐・無法・干渉の禁止、所有・信仰・表現・交流・結社・選職・移動移住・結婚家族の自由、保護・教育を求める権利など。休息する自由、なんていうのもある。さらには、参政権や著作権も含む。一言でいうと、第一条に記されている「自由と平等」。アメリカ独立、フランス革命の三信条から「博愛」が落ちたもの。それが「人権」。そして、まさに博愛が落ちていることが、人権問題をややこしくしている。
アメリカ独立、フランス革命から二世紀以上、国連決議からでさえ70年以上もたっているのに、見てのとおり、世界ではいまだに人権は正しく確立されていない。なぜ簡単に実現できないのか、というと、これが人権、つまり権利だから。権利や義務というのは、モノではなく社会的な規範で、それも権利は、本人の側に本質が無い。それを尊重する義務を国や他人が果たすことによってのみ、権利は外側から実現する。つまり、もともと本人自身でどうこうできるものではない。しかし、国や他人は、わざわざ進んで義務を負って、他人の権利を実現してやろう、なんて、面倒くさいことをしたがらない。それどころか、したくない動機ばかりが大いにある。
この人権、歴史的には、三つの理論で進展してきた。第一は、市民権。国や他人から人権を与えてもらいたいならば、まず自分が国に兵役や納税などで参加協力しないといけない、というもの。つまり、双方向義務だ。親が義務を果たしていれば、子は最初から自動的に自由で平等な人権が与えられるが、それでも、古代ローマから現代合衆国まで、その義務はかなり重く、あえて離脱したい、という人もいる。
この市民人権論の特徴は、国家義務を果たしていない者は、そもそも「人間」ではない、したがって、国による人権保護の対象ではない、それどころか、殺戮しようと、虐待しようと、おかまいなし、ということ。つまり、異民族や奴隷は「人間」ではなく、したがって人権も無く、好き勝手に扱われた。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。