人権週間を忘れていないか

2020.12.08

ライフ・ソーシャル

人権週間を忘れていないか

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/人権は、『世界人権宣言』で決議された達成すべき努力目標。しかし、人の権利は、我々がそれを尊重するという義務によってしか実現しない。おまけに、人権論の根底には、市民権論、実定法論、自然権論の違いがあり、くわえて、現代社会はもはや自由や平等の調整の余地を失ってしまっており、簡単な問題ではない。/

さらに、市民であっても、国家義務を果たさないと、人権も失う。反逆者や犯罪者に人権なんか無い、死刑、それどころか、即時現場射殺も当然だ、という考えは、この発想。そうでなくても、市民権を持つ者と持たない移民、市民権を苦労して新規に得たにしても劣等市民扱い、と、この発想は、かえって差別の温床になってしまっている。

第二は、実定法。『マグナカルタ』(1215)、『権利の章典』(1688)、さらには『ナポレオン法典』(1804)などの刑法や民法、訴訟法、徴税法の体系。これは、国(国王)や人々の好き勝手な自由を法律で制限することによって、実質的に人権の余地を開けるもの。言わば、外堀を固めて、中に自由と平等を確保する。

たとえば、人を殺したり、傷つけたりしてはいけない、と、法律が国家や他人に義務づけることによって、実質的に生命の安全が守られている。しかし、これは、もとよりむしろ国家や他人の自由を制限するもので、そのせいで、実定法化されていない、罰則の無いことなら、どんなをヒドいことをやっても自由にいいんだ、などとと考える連中を多く生み出してしまう。いじめや村八分、ヘイトスピーチのようなものも、いちいち事細かな法律を作らないと、連中は止めない。

第三は、自然法。引力万有のごとく、すべての人間は生まれながらに天賦の人権を持つ、という考え。最初のホッブズ(1651)は、万人が自分の人権を主張すると、万人の万人に対する闘争に陥ってしまう、とし、それゆえ、各自が自分の人権の一部を抑制割譲して、社会理性(均衡配慮)としての国を社会契約として作った、とする。アメリカ独立戦争において、その最初に「人権宣言」(1776)が出されたのも、この自然人権論が、米国という新しい共和国のアルケー(源泉)だから。

しかし、自然人権論では、国は闘争の防止解決のみを消極的に委託されているにすぎなかった。ところが、その後、人権の実現拡大という積極的な役割まで国に期待する人々も出て来て、パレート最適化(再配分によって既得権者を不利益にせず、別の者の利益を捻出する)、さらには自然の不自由や不平等の解消さえも求めるようになり、どんどんと自由を制限する実定法を国が増やそうとするようになる。このため、同じ自然人権論の中でも、小さな政府による自由主義、と、大きな政府による平等主義、が争うことに。

現代の人権問題の解決が難しいのは、ひとつには、第一の双方向義務の市民人権論と第三の一方的要求の自然人権論が原理的に真逆で相容れないこと。たとえば、犯罪者は、第一の市民人権論からすれば、人権保護の対象ではなく、むしろ抹殺すべき対象、ということになる。これに対し、第三の自然人権論からすれば、犯罪者もまた人間であり、証拠も無しに逮捕されてはならず、裁判も無しに処刑されてはならない。ここで、それではどうするのかが、第二の実定人権論として、法律をどうするか、議会で論争されることになる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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