/〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/
これを通過できたとしても、次に、それをイメージすることが、その感識者にふさわしいかどうか、が問題になる。身の程知らずに大それたアイディアを抱いていても、美しくないからである。逆に、英雄的人物がちっぽけなアイディアしか持ち合わせていないのでも、やはり美しくはない。このイメージと感識者との適切なマッチングが、②偉大のチェックになる。
そして、そのイメージが連想(疑似理性)で信じうるか、心理的に矛盾無く全体の因果が整っているか。ただし、これは、あくまで内的な感識の話なので、《論理学》的な意味での、実在する外界の物事との関係、整合性は問題ではない。だから、ここでは、フィクションでも、無矛盾に因果が整っていれば、③真実の美しいイメージ、とされる。
しかし、この三章において、当時の小市民ロココ的収集分類趣味の影響を受け、絶対的/相対的、客観的/主観的、論理的/感覚的、自然的/道徳的、普遍的/特殊的、等々、やたらあれこれ交差的に分類される。おまけに、キケロやホラティウス、クインティリアヌスなどの《演説術学》からの引用だらけのせいで、話が言語的演説のための着想に引っ張られ、イメージそのものは、じつは言語でも絵画でも音楽でもない、記号化以前のものである、ということが、論述として、ぼやけがちになってしまっている。
『美学』第二巻:イメージの伝達
続く第二巻の二つの章では、そのイメージが美の演説、つまり、記号化(作品化)して、観客に伝わるかどうか、が、着想論のうちにチェックされる。上述のように、当時の《演説術学》は、表現された演説の趣巧を収集分類する「修辞学」に堕していたが、伝統的な本来の《演説術学》は、演説を介して演者の内的なアイディアを観客に伝達複写するコミュニケーション・モデルを採っている。このため、ここでは、第四章までの、イメージされる物事、それをイメージする感識者、に、そのイメージを内的に再生する観客、も加わって、話がいっそうややこしくなる。
第五章④「感識術的な光」は、〈明晰〉について論じるが、これが論理的地平と感識的地平ではまったく異なる。たとえば、三角形の内角の和は180度、というような話は、論理的(理性)には明晰だが、感識的(直感、連想、疑似理性)ではかならずしもそうではない。逆に、たとえば、地上の楽園バリ島、というような話は、感識的には明晰だが、論理的にはかならずしもそうではない。バウムガルテンは、この後者の問題を、いわゆる「修辞学」の趣巧(フィギュール)を借りて吟味するのだが、問題となっているのは、言葉の意味ではなく、あくまでイメージそのものの明晰性である。
哲学
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2021.11.13
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。