バウムガルテン『美学』とは何か:イメージの論理学

2021.03.12

ライフ・ソーシャル

バウムガルテン『美学』とは何か:イメージの論理学

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/

 それは、無機的な理性ないし論理、つまり合理性が世界を統一支配している、という世界観である。それは、世界を善なる人格神が支配している、などというキリスト教的世界観に代わるものだが、もともと《理神論》は、キリスト教以前の古代に生まれた。ただし、それは、むしろ擬人的で有機的な世界観に基づいていた。

 世界には、なにか統一的な合理性がある、というアナクサゴラスらの発見から、世界は、その統一的な合理性を意志的に保つような、人間と同じ〈心(ヌース、νοος)〉があるのではないか、とされ、世界は「神」とも呼ばれた。そして、その統一的合理性を「ロゴス(λόγος、関連 )」と言う。これは「まとめる(レゴ-、λέγω)」の受動名詞で、まとめられたもの、を意味し、ピュタゴラスやヘラクレイトスの考えたような調和などの概念をも含む。

 この古代ギリシア語の「ロゴス」には、その後、ラテン語で「ラティオ(ratio、関連)」が当てられたが、料理の「レシピ」という言葉のように、これもまた、もともとは調和のような広い概念も含んでいた。ところが、その後、真理を追う緻密な《論理学》の発展に引っ張られ、厳密な同一性を保った演繹展開に限定されていき、ロゴスは今日で言う〈論理〉、ラティオは〈理性〉のようなものに限定されて、その本来の、ただ、心でまとめられたもの、というような緩い意味が失われ、調和などの広い概念も排除されてしまう。

 いずれにせよ、ロゴスも、ラティオも、世界というマクロコスモスと、人間の心というミクロコスモスの相同性を前提としており、デカルトが、〈理性〉は万人に平等であり真理の根拠である、とするのも、世界の合理性は万人の心の合理性と同一共通で、心において合理的である物事は、世界においても合理的である、という発想に基づく。

 しかるに、我々の知の中には、占いのように、合理性のよくわからない物事が少なくない。そもそも、合理性重視に徹すると、具体的なもの(物理的なもの)と抽象的なもの(心理的なもの)の断絶、というデカルト以来の《物心二元論》に引っかかって、具体的なものの認識がすべて危うくなってしまう。そこで、経験主義者のFベーコン(1561~1626)は、これの知は経験の蓄積と《帰納法》によって精緻化される、とし、ロック(1632~1704)に至っては、経験によらない知など無い、心は〈白紙(タブララサ)〉で、人間に天然の理性など無い、とまで言った。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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