/〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/
しかし、第一章の後半においても、天賦の才のみによって、偉大なイメージを抱くことができる、などとはしておらず、訓練と勉学と衝動、そして推敲が必要だ、としていた。つまり、偉大なイメージは、受動的に抱けるものではなく、主体的に抱こうとすべきものであり、このような感識者の側の度量と意志、〈精神(animus)〉の〈徳(virtus)〉を、バウムガルテンは、すべてのイメージに求められる絶対的な偉大さ、と呼んだ。
ここから、バウムガルテンの『美学』を『美学』とすることが誤りであることがわかる。彼はあくまで「感識術学」と名乗った。それは、美とは何か、を探求することが目的ではなく、また、どうやって美を認識するか、どうやって美を創作するか、を探究するのでもなく、ただ偉大な精神を持つ、徳のある人間になることをめざすものであり、その偉大な精神は、偉大なイメージを抱く感識、その連想(疑似理性)の陶冶によって、獲得できる、と考えられているのである。つまり、イメージも、その美も、人として徳を得るための手段にすぎない。
このメソッドは、第一巻では、天賦の才に恵まれた者のみの特権とされていたが、第二巻では、美しいイメージを観客に伝える方法(条件)が検討されている。こうして美しいイメージを知ることで、天賦の才に恵まれなかった観客もまた、連想(疑似理性)を陶冶し、徳ある人間になる道がここに拓かれる。イメージそのものが生命力を持つ。美しいイメージを抱くのは主体的努力が必要だが、美しいイメージは、それが感銘を与えることで、人そのものを美しくする。
つまるところ、わざわざ物心二元論のアポリアを解くまでもなく、人は、徹頭徹尾、窓無しに、イメージ世界の中だけを生きている。いや、さまよっている、という方がふさわしいかもしれない。そのイメージ世界は、そうらしい、と思うだけの主観的な蓋然性の連想(疑似理性)によってできているにすぎないにもかかわらず、我々は、平然と、それを理由に、決断し、行動する。それゆえ、人は、その人が考えているような人になる。卑しいことを考えている人は卑しく、貴といことを考えている人は貴とく。
それをいいことに、扇動政治家や広告代理店、その手先のマスコミのような悪辣な連中が、カネ儲けで搾取できるように、人々のイメージ世界を巧妙にねじ曲げる。人としてほんとうに必要なことは二の次に貶め、バウムガルテンが批判し注意しているような、些末で低俗な物事に虚飾で華麗なイメージを捏ち上げる。こうして、みずからすすんで奴隷に成り下がり、ゴミを買わされて喜び、自分の人生をダメにする人々を量産する。
哲学
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2021.11.13
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。