/〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/
こんな時代だからこそ、バウムガルテンが切り拓いた、正しい《感識術学》が必要だ。しかし、その正しさは、どこにあるのか。連続性の原則によって、バウムガルテンの言う感識的地平と論理的地平もまた、じつは一体のもの。現代語、とくに日本語では、理性と理由が区別されてしまうが、ラテン語では、どちらもラティオであり、それはつながりを意味する。バウムガルテンが「修辞学」の〈趣巧(figura)〉を感識の〈証示(augumenta、論証)〉と言うのは、蓋然的にせよ、そこに理由=理性が垣間見えるからにほかならない。つまり、イメージとイメージ、それらのイメージと感識者が協感しうるのは、そこに合理性があるからにほかならない。そして、これこそが、蓋然的ながら、窓無しに世界を内的に反映させる方法だろう。
〈理性〉は、万人万物に共通であり、《理神論》として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、ニュートンが自分を海岸で貝殻を拾って遊ぶ少年に例えたように、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。
大きな心で想像してみよう。世界には、さまざまな人々がともに暮らしていることを。その世界では、動物や植物も、海や空も、すべてが一体になっていることを。いま一時の小さな損得に目を奪われるのではなく、回り回って、すべてはつながっている、ということを。バウムガルテンが構想した《感識術学》は、こういう人の心の度量と意志、偉大な感性をめざしていたのだと思う。
哲学
2020.08.15
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2021.11.13
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。