バウムガルテン『美学』とは何か:イメージの論理学

2021.03.12

ライフ・ソーシャル

バウムガルテン『美学』とは何か:イメージの論理学

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/

 もっとも、《演説術学》を芸術に応用しよう、というアイディアは、古くからある。言葉による演説と同様、視覚や聴覚を駆使する芸術もまた、古来、観客の理解を促すための手段として、政治的に利用されてきており、とくに演説と語り画(pictura historia、神話や歴史のクライマックスの場面を描いた大型絵画)の親縁性は、古代から注目されてきた。たとえば、古代ギリシア、アテネ最盛期の芸術家フィディアスが、自分はホメロスから学んだ、と言い、逆に、古代ローマの政治家キケロは、演説術学は現実の素材から理想のイメージを着想するゼウクシスの絵画製作の方法に倣う、とし、さらに詩人ホラティウスは「詩は絵のように(ut pictura poesis)」という標語を打ち立て、これが近世では「絵も詩のように」と対にされた。また、ルネサンス最盛期、古典主義の時代、最初の万能人、アルベルティ(1404~72)も、『絵画論』1435などにおいて、《演説術学》の構成まで建築や絵画に応用することを試みている。

 《演説術学》は、着想論(inventio)・配置論(dispositio)・表現論(elocutio)から成り立っている。演者がイメージ(知覚、perceptio)を着想、これを線形順序にブレイクダウン、実際の言葉を介して観客が演者のイメージを内的に再生させる。近代の構造主義の《記号論》が、死せる記号列の物理的で客観的な位置関係にのみ拘泥するのに対し、《演説術学》は、演者のイメージを観客に伝達複写することに重点が置かれており、実際の演説の言葉そのものは、そのための手段にすぎない。したがって、イソクラテスの「民族祭典演説(パナギュリコス)」BC380のようなエモーショナルで韻律に富んだ詩歌美文も、デモステネスの「フィリッポス(反マケドニア)論」BC351のようなフィリピックで悪態だらけの罵詈雑言も、演者のイメージが観客に伝わり、強く印象づけられるなら、演説として、あり、ということにもなる。

 《感識術学》、イメージの《論理学》に相当するものを求めるバウムガルテンは、《演説術学》の中でも、主題(thema)の着想論しか必要ではなかった。まして、表現論に矮小化され、実際の言葉のこねくり回しに終始していた、当時の「修辞学」は論外。ところが、伝統的で重厚な《演説術学》に利用しようとするうちに、当初の課題だった哲学的百科事典としての感識一般の理論など忘れ去られ、彼の大著は、逆に、美しいイメージの配置論や表現論、つまり、美の演説、芸術の術学、その実践的方法論にまで、構想がズレていってしまう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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