達磨が禅を嗤う:唐代の作務行禅

2021.11.13

ライフ・ソーシャル

達磨が禅を嗤う:唐代の作務行禅

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/

 ところで、中国でも、抗争に明け暮れた華北と違って、長江下流の南京市を中心とする華南は、後漢滅亡後、呉、晋、宋、斉、梁、陳と王朝は移り変わったが、華北の亡命者を受け入れ、貴族社会が成立し、優雅な六朝文化が栄えた。ここにおいて、慧遠(334~416)は、華北長安市の鳩摩羅什と文通し、402年、同志百余名とともに長江下流の廬山で極楽往生の願を立て、アミターバ信仰の浄土教を興す。ただし、それは、あくまで極楽浄土の阿弥陀仏を念じる観法で、後世のように称名念仏を唱える易行ではなかった。しかし、ここにおいて、だれも訪れたことの無い遠い西の中央アジアのクシャーナ朝ガンダーラが、理想の仏教国家、実在の極楽浄土と考えられ、その信徒は日増しにふえていった。

 カシミールに留学したこともある北インド僧ブッダバトラ(359~429)は、そのよしみで鳩摩羅什のところに来たが、王の同族の鳩摩羅什と違って、なまじ本場ものを知るインド人として長安市の有力僧侶たちに疎まれ、門弟40人とともに転じて華南の慧遠の下に逃げて、ここで、北インド的な『ダルマトラータディアーナ(達磨多羅禅経)』を漢訳し、禅の修養法を紹介。

 ブッダバトラは、後に南朝宋の皇帝に招かれ、首都建業市の道場寺で、カシミール的な『六十巻アヴァタンサカ(六十華厳経)』も漢訳。これは、中央アジアで小経六十品がまとめられたもので、これらの小経を仏法を奉じる華にたとえて華厳と言う。ここにおいて、時空を越えた理法そのものが盧舎那(大広光明)仏として賛美され、種々の相互干渉によって世界が成り立っている、と見る。これは、もはや人間としての悟り、輪廻解脱を求める北インドの仏教を越え、一神論と天地二元論の解決として三世紀エジプトで生まれた新プラトン主義を取り込んだ世界哲学となっている。


2 達磨の壁観行禅

 439年、華北が北魏に統一され、南北朝時代となる。とはいえ、華北はもちろん、華南も、反乱戦争や王朝交代がおさまったわけではない。ここにおいて、バビロニア科学やガンダーラ文化の先進の知見を持って亡命してきた西方人(中央アジア・インド人)たちは、一種の霊能力者、軍政助言者として、各王朝で歓迎され、そのガンダーラ仏教も許容されるようになっていく。しかし、一般の人々は、あくまで中国伝統の儒教や道教の信奉者であり、中央アジア・インドから新たに来た魔術的な仏教に対しては強く反発した。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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