/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/
北朝北魏の孝文帝(467~帝71=99)は、496年、来中したインド人バトゥオのために、首都洛陽市東南50キロの嵩山(すうざん)に少林寺を建てた。(バトゥオは学僧ではなく武僧で、兵卒たちと集団で亡命してきたのか。)ここは西方科学文化の輸入拠点であるだけでなく、先進軍事技術の研究機関であり、要塞のような壁で囲まれた寺院の中では、僧兵が養成され、カラリパヤットゥ(院庭武法)と呼ばれるインド寺院伝来の拳法や棒術を訓練した。(今日、仏具とされているもののの多くも、じつはカラリパヤットゥの奇妙な武器に起原を持つ。)
南朝として梁国を建てた南京市の武帝(464~帝502~49)もまた、西方科学文化の輸入に熱心で、多くの寺院を建立していた。そこへ、527年、南インドから達磨(?~?)が来た。武帝は達磨に会ったが、話が合わない。それで、達磨は長江を北に越えて、インドからの亡命者が集まる少林寺に行った。(達磨に西方科学文化の効用を聞いたが、達磨の答えは、役に立たない、だった。実際、カラリパヤットゥなどは、騎馬の匈奴フン族の急襲にはまったく無力だった。武帝はインド人達磨に技術者としての協力を期待したが、バトゥオと違って達磨は学僧だったらしい。)
梁の武帝はまた、534年、浄土教の阿弥陀信仰を語る気鋭の傅大士(ふだいし、497~569)を宮廷に招いた。しかし、武帝を座ったまま迎えたり、空を説く『金剛経』の講義を無言で終えたり、儒仏道の奇妙な法衣で歩き回ったり、奇行を繰り返す。それでも、武帝は、彼に双林寺を建てて与えた。彼は後に、禅の先駆者として知られることになる。
一方、達磨は、面壁九年、少林寺で座禅を組んだという。座禅そのものは、バラモン教の時代からあり、仏教の開祖ゴータマシッダールタやその弟子たちも、それで修養している。それは、静かに座って瞑想し、特定の想念を焼き付けるものである。これによって、社会的な思い込み(盲信偏見)や個人的なトラウマ(心的傷害)などのような概念体系(イデオロギー)の歪みを正し整えるだけでなく、心因性の身体の不調(心的ストレスによる心身症)を除き、また、メンタルプラクティス(「イメージトレーニング」は和製英語)としてムダな緊張を除いて、潜在能力を完全に発揮させる。
それは、一種の催眠認知療法(心的抵抗を消した状態で対象を再認識する)であり、常人が睡眠中の夢などとしてふだんから行っていることを意識的に行うものであるが、座禅の「観(ヴィパシヤナ)」は、ただ特定の対象の概念を部分的に体系に組み込むのではなく、ある強烈な特定の想念を鍵として、概念体系全体を構造的に書き換え、世界そのものの認知の仕方をパラダイム転換させる。
哲学
2021.03.12
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。