/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/
6 禅宗の再生と継承
とはいえ、弾圧は一年と続かなかった。武宗が道教の怪しげな丹薬の飲み過ぎで、翌846年には33歳で死んでしまったから。潙山も僧籍に復帰し、湖南省密印寺を再開。趙州や仰山、洞山の世代も、それぞれに門弟の育成を始める。しかし、趙州や洞山などの影響か、このころから「雲水」として、寺内の作務に留まらず、各地を行脚することが行禅の新たな修養方法として広まり、師弟相伝よりも相互点検、一期一会の真剣勝負が活発に行われるようになる。
ここにおいて、南宗禅は、五つの禅風に分かれていく。潙山や仰山の法系を嗣ぐ潙仰宗は、一寺に留まり日常の行住坐臥の中に作務行禅を磨く保守的な禅風で、法難の後に復興し、隆盛。一方、同じ百丈の弟子筋ながら、黄檗(?~850)、臨済(?~867)の法系、中国臨済宗は、華北東岸の河北省を拠点とし、細い文脈の針穴を直観で貫き抜けるような峻厳豪放な「喝」の禅風で、難解なうえに唐末の地方混乱で低迷。
一方、中観に徹して「棒」で知られる徳山は、その後、雪峰(822~908)らを育て、その弟子の雲門(864~949)から雲門宗ができる。ここにおいては、いっさいのムダ口は許されず、端的に相手の中心を射るように鋭敏な、それでいてすべてを飲み込むように度量の大きな問答が求められ、一字関のように簡潔にして重厚な多くの禅語が生まれ、唐末から宗代にかけて人気となった。
洞山の弟子、曹山(840~901)に発するとされるのが、中国曹洞宗。華厳経的な天地自然の仏声を聞くことから、人間の言葉での語り伝えよりも黙照が重視されるが、しかし、まさに黙照ゆえに、これも途絶えてしまう。また、徳山、雪峰の弟子筋で、雲門とは別門下の法眼(885~958)が五代十国時代に興したとされるのが、法眼宗。彼は、南唐を建てた皇帝李昪(889~帝937=43)によって首都南京市に国師として招かれ、広く政治的な保護を受けて華南で勢力を拡げた。しかし、これは、禅宗に限らず天台宗や浄土宗も学べる、いわば西方文化総合学校。
唐の滅亡(907)、五代十国時代の混乱を越え、宋代(960~1279)になると、すでに脱税預託銀行・私設武装組織としての仏教大寺院の存在意義は失われており、いずれの伝統宗派の経典研究も廃れた。ただ、庶民は、念仏口唱の易行で救済されるという浄土宗に飛びつき、士大夫階級は、公的には国教の儒教を旨としながらも、私的には禅宗を好み、生き残ってきた保守的な潙仰宗と先鋭的な雲門宗だけでなく、看話(かんな)の中国臨済宗と黙照の中国曹洞宗が復興。ただし、法眼宗は、国教としての保護を失うと、急激に衰退。また、潙仰宗は、その後、勢いを増した臨済宗に吸収されてしまう。
哲学
2021.03.12
2021.04.05
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2022.02.16
2022.03.08
2022.04.03
2022.04.14
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。