/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/
慧能も亡くなって、劣勢に立たされた南宗禅は、716年ころ、神会(じんね、684~758)が華北の南陽市に乗り込み、両者ともに亡き慧能と神秀の優劣を論じて、激烈な北宗禅批判を展開。ここにおいて、神会は、一気にパラダイム転換する天台宗的な頓悟を主張し、神秀や北宗禅を、徐々に曇りを払っていく漸悟と決めつけ、これを五祖弘忍はよしとしなかった、と言う。とはいえ、天台宗の場合、一念三千、すなわち、瞬々の念も全宇宙を反映していることを弁える心観があっての一悟円頓だが、壁の向こうの真実相を垣間見ただけの頓悟風体験では、どのみちそのとき限り。
実際、神会は、立ち回り上手な覚者風の俗物であり、北宗批判によって、代わって朝廷に取り入ることこそが目的。このため、一時は首都洛陽市を追放されたが、755年、北方で安史の乱が起きると、軍費調達のための有料の僧籍公認制を進言し、この功績で第十代皇帝粛宗(711~帝56=62)に重用されるに至る。しかし、彼は58年に死去してしまい、代わって、四十年来、河南南陽の白崖山に籠もっていた兄弟子の慧忠(675~775)が粛宗・代宗(726~帝62=79)の二代に招かれ、「国師」(忠国師)となり、この後、禅南宗内において神会一派は、しだいに衰えていってしまう。
なお、慧能門下の高弟には、神会や慧忠のほかに、行思(ぎょうし、660~740)、玄覚(665~713)、懐譲(えじょう、677~744)がいた。行思は、慧能に工夫の進み具合と問われて、最初もおぼつかないのですから、程度もなにも、と答えて認められ、筆頭に据えられた。玄覚は、天台宗で止観を修めた後、生死の大問題と言っていきなり押しかけ、慧能を圧倒。かと思えば、懐譲は、慧能に会っても自己紹介もできずに、八年後にようやく、それらしいものは言えても、どうも違う、と答えて、これまた慧能を驚かせた。
これらから見るに、禅宗というものを確立した六祖慧能は、ナーガールジュナ哲学の中観、達磨の壁観、天台宗でも重視していた大乗仏教の法華経の万人成仏論、法相宗の唯識論、そして、華厳経の理法論などを聞き伝えでなんでも取り込み、それを二祖三祖の作務の行禅の中に生かしていた様子がうかがえる。しかし、それはたんなる寄せ集めではなく、中観や理法論と万人成仏論が一体となって、そこに無差別の万物仏性論が生まれ、それこそが慈悲で多様性を包み込む禅宗独自の世界観、自由主義となっていく。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。