/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/
4 教団分裂と南宋禅の確立
湖北省双峰の東山法門は、およそ七百名に膨れ上がり、当然、皇帝親族で秀才型の筆頭弟子、神秀(じんしゅう、606~706)が跡を継ぐと目されていた。しかし、661年、心の明鏡から努めて塵を払う、と、彼が壁に書くと、だれかが、明鏡など無い、まして塵があろうか、と書き足した。五祖弘忍は、それを書かせた、字の読み書きもできない寺男の慧能(えのう、638~713)を認め、達磨以来の衣鉢を与えつつ、おまえの身が危くなる、として、ひそかに長江の南へと逃がした。はたして、その後、東山法門内は騒然となり、神秀も行方知れずとなる。(このころ、道教を国教とする唐は、仏教の盛んな朝鮮半島の征服で苦戦しており、彼らもこの問題に巻き込まれたか?)
675年の五祖弘忍没後、神秀は、荊州市東北50キロの当陽山の度門寺を拠点として、華北黄河へ布教し、「北宗」を興す。彼は、同時代の天台宗や法相宗、華厳宗と近く、心観唯識をもって、心を払い清めて透過し、その向こうの普遍の空の真実相の理法と通じる修養法を唱え、それが農耕などの作務よりもさらにありきたりな食事や入浴などの日々の生活の中にあると教えた。(つまり、北宗は、後に神会が批判するような漸悟座禅ではなく、むしろ南宗と同じ頓悟行禅だった。)
一方、五祖弘忍の衣鉢を嗣いで身を隠していた慧能も、676年、中国南岸の広州で見つかり、「南宗」六祖として広州市北百キロの曹渓山中の宝林寺に多くの弟子たちを集めた。ここにおいて、達磨以来の禅宗の旨として「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」が明確に打ち出される。それは、経典に頼らず、分別を立てず、教えに因らずに離れて伝える。というのも、世界と一体の人間の心を直接にめざし、そこに普遍の理法を識れば、みずからも仏になれるから、ということ。いずれにせよ、これは座禅では無い。
しかし、華北の首都、長安(西安)市で、則天武后(624~705)が高宗の后の座を奪い取って、その死後に事実上の女帝となると、すでに華北に勢力を拡げていた北宗禅の神秀の方が、その帰依を受け、武后の子の中宗(656~帝705=10)・睿宗(えいそう、662~帝710=12~16)の時代まで、「長安・洛陽両京の法主」「三帝の国師」として権勢を極める。則天武后はまた、華厳宗も庇護し、法蔵(644~712)がその教学を大成する。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。