/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/
5 唐代禅宗の最盛期
慧能の後、行思は、長江の南の支流、故郷江西省吉安市郊外の青原浄居寺を拠点とし、懐譲は、そこから200キロほど西の衡陽市、その北30キロの郊外の天台宗二代、慧思の建てた湖南省南嶽般若寺を継承。しかし、行思の跡を嗣いだ弟弟子の石頭(700~90)は、懐譲と同じ南嶽の石上に庵を結び、これを南台寺としたため、両法系は、ここで再び一つとなり、その後も、広大な中国にあって、長江武漢市の南、東京・名古屋より近い南昌市・長沙市の間の周辺百キロ圏内の山中で、弟子たちが相互に点検しあって切磋琢磨し、その最盛期を迎える。
その禅風は、読経座禅を否定する作務行禅だった。たとえば、馬祖(709~88)が熱心に座禅に努めていると、師の懐譲は、横で瓦を磨き出し、鏡にしたい、と言って、ちゃかす。そして、動かぬ牛車の車を打って走らそうとするようなものだ、と言う。それは、いくら尻を落ち着けても、心は落ち着くまい、尻ではなく心を座らせろ、ということ。
慧能南宋禅の弟子第二世代としてかく学んだ馬祖は、懐譲の跡を嗣ぎ、769年、山中奥深い南嶽を出て、六代玄宗(685~帝712=56)がかつて皇帝崇拝のために定めた市内の官営大寺院、洪州(江西省南昌市)開元寺に移る。おりしも、科挙が定着し、新興地主層が知識人官僚、士大夫を出すようになっており、彼らは、土着の儒教や道教よりも、外来の仏教を好み、とくに仏典の学習や長期の修養を無用とする禅宗に惹かれた。ここにおいて、馬祖が「平常心こそが道」と言い、在家でもできる作務行禅を説いたのだから、多くの人々が聴講に押しかけた。
南泉(748~835)もまた、そのひとり。彼は、すでに多くの経典を学んでいたが、馬祖の話を聞いて、これらを棄て、作務行禅に転じ、長江下流の池州の山に籠もった。百丈(749~814)も、徹底して作務行禅を体現し、788年に馬祖が亡くなって後、かつて二祖三祖が自活して法難を避けたような洪州大雄山(南昌市と長沙市の間)の奥深い山中に、あえて仏殿を持たない(仏像を拝まない)修道院、郷導庵(現大智寿聖寺)を開き、「清規」を定めて作務行禅を行った。ここでは「一日作さざれば一日食わず」という標語で知られるように、高齢の庵主百丈本人も田畑を耕し、開墾を進めた。
潙山(いさん、771~853)は、793年、この百丈の郷導庵に入り、820年、湖南省長沙市の西百キロの大潙山密印寺で教導に当たった。また、827年ころ、ビンの中のガチョウを救ってくれ、と、池陽地方長官に請われて南泉が下山。たちまちに数百人の門弟が集まった。とはいえ、碩学深慮の南泉老師は、師の馬祖さえも罵り、猫を一刀両断にするなど、その奇矯な禅風で、なかなか常人の及ぶところではなかった。ところが、ひとり趙州(じょうしゅう、778~897)は、わらじを頭に乗せて応えてみせるなど、融通無碍。馬祖の「平常心こそが道」を引く師の南泉に対して、みずからを、四方八方に抜けられる四大門だ、などとうそぶく。また、石頭の弟子筋の徳山(780~865)は、ナーガールジュナ哲学の中観(判断中止)に徹し、無駄口を叩く者を容赦なく棒で打ち据えた。
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。