/江戸時代、日本は驚くべき文化大国だった。いわゆる「鎖国」下で、天下泰平を享受して独自の文化を醸成し、武家、商家から庶民まで、男女を問わず、それぞれに芸事を嗜んだ。それは、硬直した身分制に対して、価値転倒的な気風を含み、実際、それは身分を超えた社会対流を可能にした。/
堺の琵琶法師、石村検校(1562~1642)は、琉球に渡って蛇皮張りの三線を持ち帰り、その弟子、虎沢検校(?~1654)とともに、これを琵琶撥で弾く猫皮張りの三味線に改良して採り入れ、当時の七五朝のはやり歌に曲を付けて「組歌」とした。これは、単音の伴奏が付く、かなり間延びした経文詩吟のようなもので、リズム感は無い。
一方、街中では、出雲大社の巫女だった出雲阿国(1572~?)が信濃川中島森家武将の名古屋山三郎(1572~1603)と京都で「カブキ踊り」を始める。これは、古代の伎楽に似て、女装した山三郎の茶屋娘(遊女)と男装した阿国のカブキ者がバーレスク(艶笑的)な小芝居を演じ踊り、最後は観客も参加して陶酔的に踊り回るものである。御所内でも演じられた記録があり、庶民はもちろん公家も興じたことが伺われる。この異性装のカーニバル的なカブキ踊りは、当時の他の多様な劇団でも演じられ、さらには軽業などの見せ場を含むものとなっていく。とくに城下町や宿場町の遊郭の遊女の余興としても流行し、わずか10年ほどで全国各地に広まった。くわえて、京都、大阪、江戸では、少年男娼たちによる若衆カブキも人気となった。
浄瑠璃と歌舞伎
このころ、傀儡子は、抱えた箱舞台の上でハンドパペットの猫などを見せる程度の個人のこじんまりとした芸能に衰えていた。ところが、虎沢の弟子の沢住検校や滝野検校は、説経節のリズム取りのささらを三味線に変えて音曲を付け、傀儡子と組んで演じた。ここにおいて、傀儡子は、両手で器用に複数のハンドパペットを操って演じ分け、小芝居を演じられるようになる。しかし、これはまだ一幕ものの路頭の立ち芸だったと思われる。
織豊の天下統一とともに東海道の交通が復興する中、説経節でも、信長、秀吉、家康にゆかりのある三河を舞台にした『浄瑠璃姫』がとくに流行。これは、東国下りの途中で源義経が矢作宿(岡崎)の長者の娘、浄瑠璃姫を見染めて契るも、翌朝に別れざるをえず、義経が蒲原宿(清水)で奇病に倒れると、これを八幡神が姫に伝え、姫が駆けつけ、危ういところで一命を取り留める、という説経節のお決まりのパターンだが、十二段に整えられ、定式化される。
こうして、慶長のころ、沢住の弟子の目貫屋長三郎と、西宮傀儡子の引田淡路掾(じょう)が、一人人形芝居と三味線音曲を組み合わせて演じる「浄瑠璃」を始める。これは、物語が長丁場であるため、小屋がけで観客も座る必要があり、人形遣いや太夫、三味線も交代になっていく。これを、1615年、杉山丹後掾が江戸で興行。その他、数多くの劇団が各地の城下に現れた。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。