/江戸時代、日本は驚くべき文化大国だった。いわゆる「鎖国」下で、天下泰平を享受して独自の文化を醸成し、武家、商家から庶民まで、男女を問わず、それぞれに芸事を嗜んだ。それは、硬直した身分制に対して、価値転倒的な気風を含み、実際、それは身分を超えた社会対流を可能にした。/
庶民の転倒文化
江戸時代も体制が整うにつれ、能の式楽化に見られるように、武家を中心とする伝統文化もまた硬直マンネリとなってくる。これに対して、庶民の側から、カーニバル的に価値転倒する新しい大衆文化も流行してきた。
俳諧は、連歌の機知的な座興を強調して遊戯化したもので、戦国時代に増補され続けた『犬筑波集』あたりを原初とする。秀吉の右筆(秘書)だった松永貞徳(1571~1654)は、1615年、京都三条に、あくまで連歌入門のためのものとして、俳諧の私塾を開き、貞門派の祖となる。一方、八代加藤家の改易で浪人となった西山宗因(1605~82)は、大阪天板宮連歌所宗匠をつとめつつも、あえて機知を重視する縦横無尽な俳諧を楽しみ、無心所着を旨とする談林派を成し、これに西鶴(1642~93)なども加わった。西鶴は、『好色一代男』で浮世草子作家として売り出し、さらには義太夫を書いて、近松と張り合っている。
貞徳の弟子、京の北村季吟に学んだ松尾芭蕉(1644~94)は、1675年に江戸に出て、独自の俳諧師となって、軽(かろ)みや侘びを取り込んだ蕉風を築き、1689年には『おくのほそ道』の旅に出る。また、その弟子筋は都市風と農村風に分化して衰える。その後、芭蕉を私淑する京都の与謝蕪村(1716~84)、古歌取りの遊びを得意とする小林一茶(1763~1828)も出た。
しかし、一般には1692年ころから、連歌未満の「雑俳」の「点取」が爆発的に大流行する。その中心は、「前句付」で、与えられた後句七七に前句五七五を付けて洒脱な機知を競い合うもの。会所が主催し、貞門派や談林派の宗匠が点者(てんじゃ)として出題、これに庶民が投句して、優秀作をまとめて出版。上位には扇子や杯などの景品が出た。
また、庶民文化から出た浄瑠璃や歌舞伎も、ふたたび庶民文化へと帰り戻っていく。著作権もなにもなく、江戸や大坂で一流劇団が当てた芝居は、二流三流劇団によってコピーされ、地方城下町などでも興行された。また、庶民が商用で江戸や大坂、城下町を訪れる機会も増え、ここで浄瑠璃や歌舞伎を見た人々が、見よう見まねでまね、村々でも芝居を演じるようになっていく。
重要なのは、浄瑠璃や歌舞伎が当初からカーニバル的な非日常の価値転倒性を伴っていたことである。カブキ踊りはもともと男女逆転の異性装を笑いの原点とし、浄瑠璃もまた人間を人形が演じるところに特徴があった。その後も歌舞伎に至っては、人形劇をさらに人間が演じるもので、活人画や人形振り(ただし浄瑠璃人形ではなく糸吊り人形)の演出を採り入れていた。さらに、道頓堀からくり芝居の竹田座では、幕間余興として、人形代わりに子供に無言で演じさせ、これが大人気となった。地方でも、祭礼の山車のからくり人形に代えて子供に演じさせる「曳山狂言」となり、また、人気芝居で子供が大人を演じる子供歌舞伎も各地に生まれてくる。
歴史
2020.01.01
2020.02.19
2020.02.29
2020.06.24
2020.08.27
2020.09.25
2020.09.30
2020.10.30
2020.11.18
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。