江戸時代の庶民文化と社会対流

2020.08.27

ライフ・ソーシャル

江戸時代の庶民文化と社会対流

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

​/江戸時代、日本は驚くべき文化大国だった。いわゆる「鎖国」下で、天下泰平を享受して独自の文化を醸成し、武家、商家から庶民まで、男女を問わず、それぞれに芸事を嗜んだ。それは、硬直した身分制に対して、価値転倒的な気風を含み、実際、それは身分を超えた社会対流を可能にした。/

ところで、茶道は、武家に伝わるのみとなり、一時、沈滞してしまう。町人の三千家も、表千家は紀州徳川家、裏千家は加賀前田家、武者小路千家は高松松平家と、やはり武家茶道として命脈を保つのみだった。ところが、18世紀半ば、表千家七代如心斎が、三井家などの町人門弟を大量に受け入れ、裾野の広がる家元制を整えて、一気に派勢を拡大。作法も、狭い茶室から八畳敷一間床五人という開放的なものに転換。これを受けて、その実弟の裏千家八代又玄斉(1719~1771)、武家から養子に入った武者小路千家七代直斉(1725~82)も、家元制を採り入れた。

しかし、一触即発の戦国時代の武将たちが沈黙のツバ競り合いする狭い茶室と違って、市井の庶民が集って広間で茶を飲んだところで、俳諧ほどにも、世間話以上の意味があるわけではない。そこで、これらの三千家の三宗匠は、マンネリ化する練習に緊張感を取り戻すべく、勝負ゲームの「七事式」を制式化し、弟子たちの興味を盛り立てた。これは、花月、且坐(さざ)、廻炭、廻花、茶カフキ、一二三(ひふみ)、員茶(かずちゃ)の七つの特別な茶事で、基本は広間の五人で行われる。花月は四服点ての真剣勝負。且坐は、濃薄花炭香一式を亭主濃、半東薄、正客花、次客炭、三客香と手分け。廻炭は茶は点てず、順に炭を積む。廻花も茶は点てず、順に花を生ける。茶カフキは六人で濃三服の銘柄当て。一二三は、手前を客が採点。員茶は七人以上、札により主客を割り当てるというものである。

また、活花は、供花として寺社に生まれ、公家や武家で嗜まれてきたが、それまでの立花や投入に対し、江戸後期の化政文化で、綺麗寂びを好む小堀遠州を祖とするとされる遠州流の名人たちによる、技巧と意匠をこらした奇矯な「曲生け」が話題を集め、多種多様な花器の販売とともに、庶民の習い事としても確立されていった。


社会対流のための女子教育

このような江戸時代庶民の驚異的な教育と文化の隆盛の基底には、都市、とくに江戸の慢性的な女性不足という問題があった。参勤交代で地方家中から江戸屋敷に来る武家の大半は単身赴任であり、また、これらを支えるために地方から上京する者も、圧倒的に男が多かった。このため、江戸は人口およそ50万人、うち女性は18万人。まして、適齢期の独身女性となると、一万もいない。

にもかかわらず、寺子屋では、女子のほうが多いことも珍しくなかった。というのも、女子は、教育を得て武家奉公し、気に入られれば、名目上の養子としてもらうことで、武家に嫁ぐこともできたからである。そうでなくとも、武家出入りの大店の商家などへの婚談の道が開けた。このため、商家も、庶民も、実家隆盛の期待をかけて、女子教育にはケタ外れに熱心だった。とくに、三味線は、小唄「岡崎」を初めに、女子教育に必須とされた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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