自分の思考の前提となっている、価値観や判断基準を見つめ直すことによって、より良いコミュニケーションを実現出来るようになるのではないか?
1995年から1996年までと1999年から2001年まで、合計3年間アメリカに住んでいたことがある。フィラデルフィアとボストンの大学で勉強していた。この経験を基に考えると、欧米人は年齢や経験によって相手に対してへりくだるという感覚がない。自分の考えを相手が誰であろうとストレートに表現するし、また、主張すべき考えを持っている。
時代は変わりつつあるようだが、日本人はコミュニケーションにおいて基本的に受身である。相手が年下、あるいは、組織内の序列が低ければ、考えを述べたり、指示や助言を与えることがあるが、相手が年上であったり、序列が高い場合は、何も言わず(言えず)、従う、あるいは我慢することが多いことだろう。
このような習慣、伝統、文化が根底にあるので、日本人は自分の考えを表現することが下手である。一種の処世術として自分の考えを持たないような生活スタイルになっているようである。
日本には対外的な人間関係や組織を重視する文化や習慣がある。組織における協調性や調和が重視される。欧米人は個性が前面に出る。多くの人種、民族、文化、習慣、宗教が入り混じる欧米では自己主張して、自分の居場所を確保しなければならないようである。生活環境が弱肉強食的である。
私の知る欧米人は皆、雄弁である。それは彼ら(彼女ら)が、ものごとの「前提」になることまで細かく説明するからである。日本では「事実」、あるいは、状況の説明と「結論」だけが述べられることが多い。また、多くの場合、明確な結論を出すことを避けて、分かっているのか分かっていないのか、伝わっているのか伝わっていないのか曖昧なままコミュニケーションが終わることも多い。それは日本人の伝統的な美学と言えるものなのかも知れない。同質の価値観を持った人が考えると、結論が似てくるはずである。判断基準は同じようなものになる。判断基準をあえて説明する必要はない。「なぜそのような結論に至ったのか判断基準を示せ」と言われても戸惑う人は多いだろう。
異文化間のコミュニケーションでは当然のことだが、時代や社会の変化のスピードが速く、情報が瞬く間に世界中を駆け巡り、様々な立場、考え方、価値観が許容さるようになると、「暗黙の了解」に基づいたコミュニケーションは成立しなくなる。自分の立場、考え方、価値観、判断基準を明確に伝える必要が出てくる。また、結論としての判断、方針、立場などを明確に示さなければならなくなる。それが出来なければ、コミュニケーションが成り立たない。「事実、前提、結論」を明確にしたコミュニケーションが不可欠となる。
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