第八章 十九世紀産業革命と社会の変貌

2025.10.14

ライフ・ソーシャル

第八章 十九世紀産業革命と社会の変貌

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/産業革命は、たんなる生産経済の効率化でなく、社会構造を根底から変えた。/

 アメリカでは、一八二八年、メリーランド州でボルティモア=オハイオ鉄道建設が始まります。とはいえ、それは、当初はまだ、鉄路を馬車が走る予定でした。そして、一八三〇年、鉄道の歴史的な勝負が行なわれました。すなわち、その前年に、かのホイットニー小銃の廃材からボルティモア=オハイオ鉄道の工場で組み立てられたクーパーの親指サム号が、馬車と競争したのです。最後の瞬間に滑車のベルトがはずれ、おしくも親指サム号は敗れたものの、この競争は、あきらかに汽車の勝利を示していました。そして、ボルティモア=オハイオ鉄道には、馬車ではなく汽車が走ることになったのです。

 このボルティモア=オハイオ鉄道は、もうひとつの重要な勝負を秘めていました。すなわち、その建設が始まった一九二八年には、同じく大西洋と五大湖とを結ぶチェサピーク~オハイオ運河もまた開削が始まったのです。いずれにしても、この交通路の間には、アパラチア山脈につながるアレゲニー台地が広がっていました。そして、この台地を越える運河と鉄道の競合は、十八世紀的な水運と十九世紀的な陸運の最後の決戦となっていきました。そして、結果はあきらかでした。一八三〇年、鉄道ははやくも第一区間を完成し、四二年には台地上のカンバーランドまで達したのに対して、運河はそれに八年も遅れたのです。もとより財政難の重なっていたその運河は、そこでもはや放棄されてしまいました。

 また、一九三〇年、蒸気船から機関車に転向したジョン=スティーブンズの親子が、T型線路、犬釘、接続板などを開発し、線路の標準化を図りました。そして、イギリスでも、三〇年には、工業都市マンチェスターと港湾都市リヴァプールとの四十五キロを結ぶ鉄道が営業を始めています。このように、一九三〇年、この年に鉄道の時代が始まったのです。そして、その後、フランスは三二年、ドイツ、ベルギーでは三五年、カナダでは三六年、ロシアでは三八年、オランダ、イタリアでは三九年と、次々、各国で鉄道が開通していきます。

 鉄道は、経済構造そのものにおいても一大変革をもたらしました。すなわち、それは、一資本家が手がけるには、あまりに巨大事業だったのです。すでに十八世紀末以降のアメリカにおいて、五千人以上もの投資家による有料道路や有料運河が建設されて始め、ナポレオン戦争後は、アメリカ政府もこの民間プロジェクトに協力すべく、陸軍工兵隊を従事させたり、無償で用地を払い下げたりして、官民一体の富国強兵策が採られていました。こうして、一八二五年、ニューヨーク株式取引所がオープンしますが、その名柄は、ほとんどがこの種の公共事業株でした。そして、その後、この株式会社制度を引き継ぎ、大いに発展させていったのが、鉄道だったのです。株式会社制度は、鉄道とともに育ったと言っても過言ではありません。もっとも、鉄道そのものは、その後、その軍事・経済的重要性から国有化されることも多くなっていきました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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