/ニーチェはワグナーに失望し、すべてが無意味だという虚無主義に陥った。しかし、やがて、その虚無こそが世界の真相だ、と悟り、ツアラトストラという預言者の物語を通じて、虚無を生き、あえてそれを愛する超越者の生き方を伝えた。/
ライプツィヒ大学で古典学の天才研究者だったニーチェ(1844-1900)は、1869年、学位無しにバーゼル大学の教授に任命されました。彼はシェイクスピアやゲーテを深く崇拝し、ショーペンハウアーとワーグナーのファンでもありました。新古典主義がギリシア文化を明晰で知的なものとしていたにもかかわらず、1872年、彼は、ギリシア悲劇の根底には暗く非合理的ななにかが潜んでおり、役者と合唱団の間の葛藤によって構成されている、という大胆な仮説を発表しました。しかし、実証的な根拠の欠如を痛烈に批判され、彼は学者としての信頼を失いました。
「それは、ワーグナーの総合芸術の理念に合致したのに」
たしかに、アカデミズムから疎外されていたニーチェは、ワーグナーがその理念を実現することを期待し、しばしば彼を訪ねていました。しかし、1876年の『ニーベルングの指環』の初演で、著名人に囲まれているワーグナーの俗物性に、彼は失望しました。ニーチェは、最初からワーグナーを誤解していたのです。ショーペンハウアーの影響を受け、反ユダヤ主義に突き動かされたワーグナーは、ドイツのキリスト教はアーリア人の仏教から発展した、という奇妙な宗教観を抱いており、『指環』以前から、キリスト教の祝祭劇『パルツィヴァル』を構想し、作曲に着手していました。
「結局のところ、ワーグナーはユダヤ人のようにちやほやされたかっただけだった」
ニーチェは1879年、健康状態が悪化し、バーゼル大学を辞めざるをえなくなりました。精神的にも落ち込んでいた彼は、スイスの山奥の小さな村に隠遁し、静養しました。このころ、彼は数々の格言を書き記しました。宗教、哲学、政治など、すべてが無意味で、これらは悲観的な人間が作り出す妄想的な理念にすぎない、と、彼は冷徹に考えていました。彼は悲観的な虚無主義者でした。
「知識人には、そういう人がよくいるよ」
しかし、数年後、ニーチェは虚無こそが世界の真実である、と悟って、「神は死んだ!」と叫びました。そして、彼は、1883年、寓話的な神話『ツァラトゥストラ』で、新時代の到来を描きました。ツァラトゥストラはもとはイランの宗教家でしたが、ニーチェは彼を善悪を超えた時代を告げる預言者として描きました。 十年の思索の後、ツァラトゥストラは説教のために山を下りました。ツァラトゥストラによれば、人々は神々を殺し、まるで自分が神になったかのようにさまざまに語りますが、しかし、彼らはけして最先端などではなく、ただ列の最後尾にすぎず、しかも先頭にはなにもない! そして、ニーチェは「この空虚な大地を歩む超越者(ウーベルメンシュ)に祝福あれ」と祈りました。
「そういえば、シェイクスピアも『この世はすべて舞台だ』と言い、ゲーテもまたファウストを超越者と呼んで、善悪を越えるように促した」
ところが、ニーチェは、すぐに続編を執筆しました。人々が彼をただの悪魔的なアナーキストだと誤解していることに気づいたツァラトゥストラは、ふたたび山を下り、大地を基盤とする真のアルケー、力への意志を説きました。それは、生きてすべてを創造する力の源泉であり、まさに生命の真の救済です。しかし、宗教、哲学、政治は、ありもしない理想を捏造して、その力を否定し、奪い取っています。だから、今、私たちは、もういちどその力を肯定すべきだ、と。
「ファウストもまた、人々が土地を耕す音を聞いたと思い、満足して死んだ。でも、彼は、『時よ止まれ!』って言ったよ」
たしかに力への意志は、けして止まりません。すべては、次のものに克服されるにちがいありません。だからこそ、ニーチェは第三部で、この問題を論じました。永遠に続くものなどなく、無意味なものが果てしなく繰り返される。この永劫回帰こそが虚無世界の真理だ、と。しかし、超越者は、その永劫回帰さえ、みずからのものにします。消え去った過去こそ、自分が投げ捨てたいものであり、消えゆく未来こそ、自分が繰り返したいものです。彼は、止まらない運命を愛し、むしろ永遠にそれとともに生きようとします。
「それがまさに力への意志だろう」
しかし、第一部と同様、第二部や第三部もほとんど売れず、反響もありませんでした。そこで、1885年、ニーチェは第四部として、ツァラトゥストラに九人の名士たちとの対話をさせました。ところが、預言者や二人の王、学者、魔術師、最後の教皇、最も醜い者、自発的な乞食、彼の影は、じつはみな、ツァラトゥストラに助けを求める困窮者たちでした。しかし、ツァラトゥストラは、ロバのように「やー」と答えて生を肯定することを主張し、洞窟の中の名士たちへの同情を振り払い、一人で山を下り、土地に暮らす農民のように、自らの仕事に取り掛かることを決意しました。
「乞食はイエス、魔術師はワーグナーにちがいない。しかし、他の者は誰だったのだろうか。いずれにせよ、洞窟の中の人々と議論しても時間のムダだ」
ニーチェは病気の悪化にも関わらず、『ツァラトゥストラ』のテーマを格言、議論、そして学術的なスタイルで書き直しました。そこで彼は人間の本性を、ルサンチマン(怨嗟)で虚構の理想を捏造する欲望、と再定義しました。みずからの生を肯定できない弱者は、強者を羨み、自らが強者となる価値観の逆転を企てます。実際、それは産業資本の巨人たちの黄金時代でした。彼らは貧しい身の上から這い上がり、鉄鋼、石油、鉄道で財を成し、自らのルールで世界を支配しました。ニーチェは1889年に発作を起こし、監禁され、1900年に亡くなりました。彼は、自分の思想が世間の注目を集めていることを知るよしもありませんでした。
「しかし、彼は崇拝者たちをもっとも嫌っていたにちがいない」
純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒(インター&文学部哲学科)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元東海大学総合経営学部准教授、元テレビ朝日報道局ブレーン。
哲学
2025.02.01
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2025.12.02
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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