/大戦後、ドイツナチスの「アーリア仮説」に代わって「クルガン学説」が唱えられ、ウクライナこそがすべての文明の源泉だった、などとされ、東欧移民のコンプレックスとソ連の国家主義のイデオロギーがあいまって、広く世界に流布され、東欧崩壊後、学術風通俗本で評判になり、東欧や移民先の欧米でカルト的な信奉者を生み出した。それがネオナチ。/
漏斗杯人の一部は、前3400年ころから現ポーランドあたりで東方の馬を取り込み、「球状壺(クーゲル・アンフォラ、Kugelamphora)文化」(KAK)に発展。この土器の底面が平らであることから、彼らの家には床があったと思われ、それを浮かすための柱や壁も用いられただろう。このころになると、かつて干潟草原も、もはや森林へと変わりつつあり、このため、彼らの牧畜は、牛ではなく豚で、森の中でドングリを喰わせて肥育した。
東西から新技術が流入した青銅器時代:前2000年代
エジプト、ついでメソポタミア、そして中国で、実用硬度のある最初の金属、青銅が発明された前3000年ころから千年に渡って、急に気温が2度も下がる寒冷期が続く。このため、ドニエプル川中流のスレドニー・ストッグ人では、シカやイノシシなどの狩猟、食肉馬の放牧に支障が生じ、その一部は好戦的に西のポーランド平原に入り込んで、もともと同じドニエプル出の温和な低地農耕牧畜民レェッセン人を征服し、新たに「縄目紋(シュヌーア・ケラミック、Schnurkeramik)文化」(SK)を生み出していく。
この文化は、縄目紋様をつけ、底が広がった円筒土器で特徴づけられるが、それ以上に独特なのが、とくに北欧の男の墳丘墓の副葬品とされた磨製石器の小さなボート型の戦斧の頭だった。長さが10センチ半ほどしかなく、刃も柄もついていないので、実用性は無く、あくまで彼らの武力支配の象徴だったのだろう。また、彼らの中には、火葬されてから埋葬されたものもあった。
しかし、西進してきたスレドニー・ストッグ人の支配を受けるようになった一般農民の生活は、牛車や馬車を使うようになったこと、プロト印欧語(ゲルマン語やスラブ語の祖)を強いられたこと、父長制身分社会が成り立ってきたこと以外は、あまり変わらず、北欧のWHG系エルテベレ人は漁撈、西部低地草原のEHG系レェッセン人は牛を、北部低地森林のEHG系球状壺人は豚を、そして、EEF系で内陸部に広がったミヒャエルスベルク人は羊を牧畜した。
前2800年ころになると、こんどは西の地中海側から、口の開いた土器を特徴とする「釣鐘壺(Glockenbecher)文化」(GBK)が広まり、イベリア半島や大ブリテン島、そしてヨーロッパ西半にも普及していく。これは、中東かバルカン半島の複数の職人集団が、海を越え、イベリア半島に上がり、現地民族を横断しつつ、冶金技術を普及していったことによるもので、遅れたヨーロッパを青銅器時代へと塗り替えていった。そして、武器にも農具にも加工しやすいこの硬質金属を保持することによって、同じ民族の中にも支配階級が出現し、ヨーロッパは身分制社会へと変貌していく。そのようすは、支配階級の巨石墓からもうかがい知ることができる。また、庶民も、もはや農耕牧畜の定住生活となり、野生動物の狩猟はほとんど見られなくなる。
歴史
2021.09.09
2021.09.26
2022.01.14
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2022.07.03
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2022.10.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。