/大戦後、ドイツナチスの「アーリア仮説」に代わって「クルガン学説」が唱えられ、ウクライナこそがすべての文明の源泉だった、などとされ、東欧移民のコンプレックスとソ連の国家主義のイデオロギーがあいまって、広く世界に流布され、東欧崩壊後、学術風通俗本で評判になり、東欧や移民先の欧米でカルト的な信奉者を生み出した。それがネオナチ。/
ヨーロッパ低地は、多くの川を通じて海水が引き、北大西洋から流れ込む低気圧の雨とアルプス氷河が融けた水で塩分が洗い流され、豊かな草原が広がった。それゆえ、EHG系ドニエプル人は、前5000年ころから西にも広がり、黒海北岸の湿地(現ウクライナ)を経て、WHGが住むヨーロッパ低地、すなわち、ポーランドのヴィスワ川中流から現フランスのセーヌ河口まで広がって、前4600年ころ、「レェッセン(Rössen)文化」を興した。彼らは、水抜きと防衛のための堀で囲まれた集落を築き、農耕と牧畜(牛や羊、そして豚)を営み、また、死者を縦穴に埋葬する習慣を持っていた。
彼らの本拠地のドニエプル川中流でも、CHG系との混交が進み、WSHとして、前4500年ころから「スレドニー・ストッグ(Sredni-Stog)文化」へと発展する。彼らは、あくまでシカやイノシシなどの狩猟民で、東方のサマーラ文化から輸入された馬も食肉家畜として飼育していた。しかし、馬は、牛と違って反芻胃を持たず、1.3倍もの飼料を食べたことから、より広い放牧地を必要とした。木の柄のついた石の戦斧は、彼らが狩猟ではなく、人間同士の激しい紛争を始めたことを示している。
同じ前4500年ころ、西では、地中海のEEF系線帯紋人が北上し、パリ盆地東南部に「シャセ(chassey)文化」を拓く。そして、前4400年ころになると、彼らは東の内陸部ラインラントまで勢力を拡大。さらに内陸のドイツ中南部へも入植し、EHG系レェッセン人と混交して「ミヒャエルスベルク(Michelsberg)文化」(MK)となった。彼らには埋葬の跡が無く、それどころか人間の生贄を行っていたかもしれない。
前4300年ころから、ヨーロッパ東北部、干潟平原(現オランダ~ドイツ北部~ポーランド)のWHG系エルテベレ人やEHG系レェッセン人は、底のとがった土器を使う新石器時代の「漏斗杯(トリヒター・ベッヒャー、Trichterbecher)文化」(TBK)へ変わっていく。彼らの土器はまた、縫目(スティッチ)紋でも特徴づけられる。土器の底が尖っていることから、彼らの土地が干潟平原でまだ柔らかく、彼らの家がまだ小屋がけ(地面に直接に屋根を置く)に近い形で、土間の穴に土器を据えたことが想像される。
西の低地のEHG系ドニエプル人や東の草原のANE系モンゴロイド族テュルク人と混交しなかったCGH系の純粋ウラル語族は、その後、北方をウラル山麓からバルト海にまで西へ広がり、前4200年ころから「櫛目紋(ピット・コーム、Pitcomb)文化」を興す。彼らの土器は、櫛を使って等間隔に付けた四角い小穴紋様が法眼状に並んでいる。また、彼らは、川や湖沼、海が多い寒冷な地域にあって、アザラシなどの狩猟や漁撈で生活した。
歴史
2021.09.09
2021.09.26
2022.01.14
2022.01.21
2022.06.19
2022.07.03
2022.07.16
2022.07.21
2022.10.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。