/大戦後、ドイツナチスの「アーリア仮説」に代わって「クルガン学説」が唱えられ、ウクライナこそがすべての文明の源泉だった、などとされ、東欧移民のコンプレックスとソ連の国家主義のイデオロギーがあいまって、広く世界に流布され、東欧崩壊後、学術風通俗本で評判になり、東欧や移民先の欧米でカルト的な信奉者を生み出した。それがネオナチ。/
干潟草原と等高石路・クルガン:前3000年代
前4000年ころからの千年間、気候は持ち直す。コーカサス山脈の両側、また、ウラル山脈から現ウクライナにかけて、さらには、東北ヨーロッパの現ポーランドから現オランダにかけて、不安定だった海岸線は後退し、干潟は、牧畜に適した広大な草原に変わっていく。土壌に残る塩分は、蒸散する大きな樹木には有害だったが、大量の塩分の補給を必要とする牛などには好都合だった。
表面に草が生えたとはいえ、干潟草原は、基本的にまだぬかるみだった。ところが、内陸部に東西に長く石が積もる帯ができていた。これは、かつての海岸線であり、比重の大きな泥流海潮が運んできた石を打ち上げた磯の跡である。この自然の石路は、完全に等高で、起伏無しに続いていた。ここにおいて、牛ソリ、さらには木製車輪を持つ牛車が使えるようになる。(車輪ができても、石路が先に無ければ、重量でめりこむだけ。)
干潟草原でも、より海に近いところでは、この石帯は、円形になった。それは、その地盤地形がもともと丘状になっていたために、石が打ち寄せられて島状の岩礁となったからである。この痕跡は「イェティン・キルッコ(Jätinkirkko、巨人教会)」と呼ばれ、その後の荒天高潮の際にも水没を免れる貴重な安全場所を意味した。そして、安全祈願もあって、このような場所は権力者の墳墓とされ、ときにはさらに遺骸を船に乗せて、ここに埋葬した。
さらに後には、人工的に丘墳を作り、イェティン・キルッコのように周囲に積石を施すようになる。これが「クルガン」である。しかし、ぬかるむ干潟草原にあって、生活の場においても石の需要は高く、天然の積石帯路やイェティン・キルッコなどは、その後、人々の格好の石取り場となり、消滅してしまう。
東北ヨーロッパ干潟草原の漏斗杯人は、その後、さらに磨製石器での狩猟から牛の牧畜へシフトし、石路の整備とともに車輪や牛車を使うようになった。そして、前3800年ころになると、なんらかの政権ができて、大きな墳丘墓「クルガン」を作るようになり、前3500年ころから、その石室が発展して、巨石遺跡を数多く築いていく。
また、黒海北岸の干潟草原(現ウクライナ)でも、前3600年ころから「ヤムナ(Jamna)文化」が芽生える。彼らは、おそらく放牧地を争う北の好戦的なスレドニー・ストッグ人に追われて、EHG系ドニエプル人が南下してきたのだろう。また、ここにおいて、馬のキャラバンを使って黒海・カスピ海北岸の等高石路沿いに東西に広く交易を行っていたカザフステップのボタイ人とも混交しただろう。彼らは、砦を築いて守りを固め、ぬかるむ低湿地にあって、牛を育て、農業を始めた。(奇蹄目の馬はぬかるみでは放牧できない。)そして、ヨーロッパのレェッセン人と同様、彼らもまた死者を縦穴に埋葬し、ときには漏斗杯人のような積石墳丘墓「クルガン」も作った。
歴史
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2022.10.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。