なぜウクライナは偉そうなのか? :新石器・青銅器時代のヨーロッパ

画像: 天然の「巨人教会」

2022.06.19

ライフ・ソーシャル

なぜウクライナは偉そうなのか? :新石器・青銅器時代のヨーロッパ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/大戦後、ドイツナチスの「アーリア仮説」に代わって「クルガン学説」が唱えられ、ウクライナこそがすべての文明の源泉だった、などとされ、東欧移民のコンプレックスとソ連の国家主義のイデオロギーがあいまって、広く世界に流布され、東欧崩壊後、学術風通俗本で評判になり、東欧や移民先の欧米でカルト的な信奉者を生み出した。それがネオナチ。/

前2400年ころ、はるか東方のCHG系アーリア人の一派が、銅を硬化させる錫を求め、馬とともに黒海北岸を西進。このため、EHG系ヤムナ人(ウクライナ低地に移ったドニエプル人)が追われて、西のハンガリー(パンノニア)盆地へ。アーリア人は、黒海西岸を南下して、トラキア(ドナウ川下流平原、現ルーマニア・ブルガリア)に入り、ここで錫を得て青銅の武器を作り、さらに西進し、バルカン半島内陸部(現ギリシア北部)に定住して、原ギリシア人となった。

一方、EHG系のヤムナ人も、ハンガリーから、チェコ、そして南ドイツへ進んで、EEF系主体のミヒャエルスベルク人と混交し、前2300年ころ、「ウーニェチツェ(Únětice)文化」を興す。彼らは要塞に集住して、茅葺きの切妻高床住居に暮らし、床下を穀倉とした。彼らはフィヒテル山脈(バイエルン・チェコ国境)でヴェッラ錫鉱山を発見し、精巧な工芸品を発達させ、遠くブリテン島やイタリアとも交易した。ここでは粘土パン符(パン型の粘土の塊)を用いて、信用取引が行われていたかもしれない。また、天文観測を行っていた遺物も発見されている。

エーゲ海のクレタ島は、前2000年ころから地中海交易の中心となり、壮麗なクノッソス宮殿の下、開放的な「ミノア文明」が栄えた。これに応じて、原ギリシア人の一派、アカイア人も南下し、入植していく。

一方、ヨーロッパでは、前1600年ころ、ウーニェチツェ文化が、アルプスの北側、西のヴュルテンベルク(ストゥットガルト周辺)の「墳丘墓(Hügelgräber)文化」(HGK)や、東のポーランドの「トシュチニェツ(Trzciniec)文化」として広がる。これらにおいても、多種多様な金属装飾品が作られたが、同時に集落の要塞化が進み、剣やナイフなど、戦闘も激しくなってきたことがうかがえる。また、これらでも大きな墳丘墓「クルガン」が作られたことから、政治的権力が生まれていたこともわかる。ただし、ここでは埋葬の前に火葬が行われるようになった。(このEHG系の影響下の人々が後に「ゲルマン人」となる。)

エーゲ海に進出したアカイア人は、前15世紀半ばにはミノア文明を滅ぼし、代わってみずからペロポネソス半島東部に「ミケーネ文明」を拓いて、地中海貿易を支配。閉鎖的な巨石城塞とその出城からなり、農民を収奪する戦士の連合体を作った。彼らは好戦的で対岸のアナトリア(小アジア)半島沿岸にも遠征し、そのようすはトロイア(イーリオス)戦争としても伝えられている。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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