/大戦後、ドイツナチスの「アーリア仮説」に代わって「クルガン学説」が唱えられ、ウクライナこそがすべての文明の源泉だった、などとされ、東欧移民のコンプレックスとソ連の国家主義のイデオロギーがあいまって、広く世界に流布され、東欧崩壊後、学術風通俗本で評判になり、東欧や移民先の欧米でカルト的な信奉者を生み出した。それがネオナチ。/
同じころ、地中海側のWHGが、アルプスの西側、大洪水で一時的に森林が草原となったローヌ・ソーヌ川沿いに遡上。初期ヨーロッパ農民(Early European Farmaers、EEF)として「線帯紋(リニア・バンド)土器(Linearbandkeramik)文化」(LBK)を拓く。彼らは、もはや新石器時代(磨製石器・土器・農業を特徴とする)に属し、スペルト小麦や豆などを栽培した。また、彼らは地中海沿岸から農耕用の大型牛を持ち込んだが、しかし、肉は現地の野生のシカやイノシシなどの狩猟で調達した。この食生活の変化などに対応して、EEFは、WHGよりも急激に小柄になった。また、彼らは女母神を崇拝していたらしく、女性の死者は家の床下に埋葬したが、男の死体は打ち棄てた。
その後、ヨーロッパ北沿岸部では、水位がいまより3メートルも下がり、やたら砂州での陸続きになって、前5300年ころ、南西からの線帯紋人に押し上げられたのか、狩猟採取で暮らしていたヨーロッパの残存クロマニョン人(WHG)がここに移り渡り、「エルテベレ(Ertebølle)文化」を成立させた。彼らは丸木舟で漁撈し、海の豊富な恩恵を受け、魚はもちろん鯨やイルカも獲った。また、人間同士の争いも激しく、栄養補給のためにも殺した相手の骨を砕いて、その骨髄を食べた。また、彼らは死体を丸木舟に乗せて埋葬する習慣があった。
EHG系ドニエプル人は東に広がり、CHG系ウラル語族と混交して、西部草原牧畜民(Western Steppe Herders、WSH)となり、前5000年ころ、ヴォルガ川中流に「サマーラ(Samara)文化」(メソポタミアのサマッラ文化とは別)を拓く。彼らはここでウラル山脈の野生馬を再発見し、食肉として狩猟する。彼らもまた遺体を黄土に埋葬したが、この際に牛や羊、馬などの生贄を捧げた。
同じころ、CHGのウラル語族は、山脈東側のカザフステップで「ボタイ(Botai)文化」を生み出す。彼らは、もとより東のANE系の天山山脈のテュルク人やサヤン山脈北のシベリア人などのモンゴロイド族とも広く混交し貿易しており、広大な草原で大量の馬を家畜として飼育繁殖するようになっていく。ここにおいて、馬は、まだ騎乗はできないものの、もはや食用ではなく、キャラバンの輸送用だった。馬は、反芻しなければならない牛よりも、少ない水で長距離の移動に耐えた。
歴史
2021.09.09
2021.09.26
2022.01.14
2022.01.21
2022.06.19
2022.07.03
2022.07.16
2022.07.21
2022.10.27
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。