/コロナとともに、「近代」が終わろうとしている。しかし、それは何だったのか、次はどうなるのか。それを読み解く鍵は、中世が終わり、近代が始まったころの世界の大変革を理解することにある。/
しかし、彼の権勢も長くは続かず、二一年には汚職が発覚して、彼は地位も身分も喪失してしまいます。ベイコンは、この失脚の後、自分の人生を狂わした立身出世の野望を深く反省します。そして、彼は、[自国の中で自分の権勢を伸張しようとする野望も、世界の中で自国の権勢を伸張しようとする野望も、しょせんは欲望に支配されたものにすぎず、人間は、宇宙の中で人類の権勢を伸張しようとする野望こそを持つべきである]と考えるに至りました。
とはいえ、人間は自然に比べてあまりに無力です。そこで、彼は、むしろ「自然は服従によって征服される」と考えました。つまり、[自然の性質を正しく理解すれば、その性質を手綱として自然を制御できる]ということです。このことを彼は「知は力なり」というテーゼで表現しました。しかし、アリストテレスの論理学だけによる思弁的なスコラ哲学は、空理空論であって、およそ力にはなりえません。彼はかねてから学問の「大革新」を計画していましたが、これまでのアリストテレスの論理学(オルガノン)の方法に代わる知識獲得の方法を模索し、『ノーヴム=オルガヌム』を執筆します。
ここにおいて、彼は、[思弁的な論理学ではなく経験的な観察と実験こそが力となる知を獲得する方法である]と主張します。しかし、彼によれば、観察実験の以前に、人間は四つの〈虚妄(イドラ)〉によって心を曇らされています。すなわち、情感による〈種族の虚妄〉、偏見による〈洞窟の虚妄〉、伝聞による〈市場の虚妄〉、権威による〈劇場の虚妄〉です。したがって、まずこのような虚妄を排除し、雲りのない心となることが必要です。
〈種族の虚妄〉とは、人間や民族が持つ生理的・文化的な情感によるものです。〈洞窟の虚妄〉とは、プラトンの洞窟の比喩のような個人が持つ偏見によるものです。〈市場の虚妄〉とは、マスコミのウワサのような間接の伝聞によるものです。〈劇場の虚妄〉とは、舞台の上のおおげさな手品のような権威によるものです。
そして、論理学的な思弁ではなく観察や実験という経験から知識を獲得する方法にしても、物事から偶然に共通性を発見する帰納法ではあてになりません。なぜなら、偶然に発見された共通性は、偶然の共通性にすぎないかもしれないからです。そこで、彼は、ある物事のさまざまな性質について、その性質を持つ事例の〈現存表〉、その性質を持たない事例の〈不在表〉、その性質を増減する事例の〈程度表〉の三つを整理し、この三つの表の比較によって偶然的性質を除いていくことによって、その物事の本質的性質だけが残るようにするという否定的帰納法を採ります。そして、[このように観察や実験の帰納法を地道に重ねていってこそ、やがては自然を支配できる力となる知が得られる]と彼は考えたのです。
歴史
2021.08.20
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2021.09.09
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2022.01.14
2022.01.21
2022.06.19
2022.07.03
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。