/コロナとともに、「近代」が終わろうとしている。しかし、それは何だったのか、次はどうなるのか。それを読み解く鍵は、中世が終わり、近代が始まったころの世界の大変革を理解することにある。/
とはいえ、新興国イギリスは、かならずしも先進国であったわけではありません。むしろ、国王とその周辺は、異様なほど時代錯誤的でした。国教会の創設も、およそ近代的な宗教改革の問題とは関係なく、たんに国王の離婚という私情に基づくものであり、むしろこのローマ教会からの離脱によって宗教改革の影響からも免れていました。そして、中世のローマ教皇の権威と同様の《王権神授説》を主張して、国内支配の根拠としていったのです。このことは、ある意味では、イタリアなどの先進地域の近代化の変貌に追いつけず、辺境地域に抑圧的な中世ローマ教会体制のミニチュアが残存してしまった、と解釈することもできるでしょう。
モンテーニュの内省的人文主義
モンテーニュ(1533~92)は、フランス、ボルドーの領主の家庭に生まれました。しかし、彼の一家が中世以来の封建領主であったわけではありません。十五世紀に彼の曽祖父が、ジロンド川三角江口のイギリス向けワイン積出港であるボルドー市で貿易商を始めたのが最初でした。この商売ははなはだ成功し、曽祖父はその利益で土地を買い集めていきました。そして、彼の祖父が商売をさらに発展させて、市の裁判参事となり、彼の父は、モンテーニュ領領主として貴族に列せられ、また、教養と財産にあふれたセファルディム(スペイン系ユダヤ人)の大商人の娘と結婚します。
このように、一般に、十六世紀においては、中世末期のユダヤ人追放以来の成金上層市民は、その利益で土地を買収することで、買地貴族領主にまで成り上がっていったのです。これが次の十七世紀になると、全国一般的に貨幣経済や官僚制度が整備されていったため、成金上層市民は、その利益で官職を買収することで、買官貴族官僚に成り上がっていくようになります。
財産と地位は充分ながら、教養の不足を感じていたモンテーニュの父は、彼には教養を身につけさせようと、わざわざドイツから三人の家庭教師を招き、ラテン語のみで育て上げました。そして、彼はボルドー大学で法律を学び、市の裁判所に勤め、また、五四年、彼の父もボルドー市の市長になりますが、おりしも、ドイツで起った宗教改革による新旧両教の対立がフランス王家の内紛も絡んで激化し、ついには「ユグノー戦争」(1562~98)となってしまいます。
しかし、六八年、彼が三五歳のとき、彼の父が亡くなったのをきっかけとして、彼は混迷する政治よりも学芸への関心を深め、三八歳で行政から完全に引退し、『エッセー』を書き始めます。『エッセー』とは、試みという意味であり、モンテーニュは彼の高度な古典の教養を駆使して、さまざまな現実的な問題に現実的な解決を試みます。それは、まさに[現実の人間を直視しつつ、理想の人間を模索する]という人文主義そのものでした。しかし、モンテーニュが独創的であったのは、その問題の現実の人間とは、歴史上の人間でも、政治上の人間でもなく、まさに自分自身だった、ということです。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。