/旧弊を刷新しようと乗り込んでいったはずのやつらが、そのわけのわからない正体不明の化け物に魂を奪われ、いつの間にか「土人」たちの王となって、むしろ旧弊の権化として支配し、化石になったボロボロの象牙を掘り出して喜んでいる。余所者は、現地の「土人」以上の「土人」にならないとやっていけないのか。/
『地獄の黙示録』も『アド・アストラ』も、それがこの世と遠く離れたところにあって、自分たちは安全、と思っているらしい。だが、コンラッドは、戻ったヨーロッパで安穏に暮らす人々を、バカのくせに偉そうに、となじる。彼の小説は、額縁構造の底が抜け、この大都会ロンドンもまた魔境とつながっている、として、終わりが開かれているのだ。
魔境は、コンゴにあったのではない。クルツ氏が入ったベルギーの「会社」こそがすでに魔境であり、その巨大で邪悪な組織的搾取の先兵として、彼の魂はコンゴ行きの前から吸い取られ、操られることになる。そして、マーロウの話を聞いている「私」も、じつは最初からその闇に呑み込まれているのだ。
魔境に暮らす
遡れば、ヘンリー・ジェイムズが、『アメリカ人』(1877)や『ロンドンの包囲』(1883)で、ヨーロッパ上流社会の「密林」を描き出している。フィッツジェラルドの代表作『御立派なギャッツビー』(1924)も、貴族令嬢に憧れ、そのために闇の仕事に手を染めてしまう成り上がりが主人公。また、大恐慌下で「だれもが王さま」との標語を掲げ、政界を刷新する大統領になるために旧弊の汚職と腐敗にまみれていく上院議員ヒューイ・ロングの姿は、ロバート・ペン・ウォーレンが『みんな王さまの家来』(1946)で揶揄した。右往左往するばかりの敗戦後の混乱ドイツにあって、復興の壮大な計画をぶち上げ、ユダヤ人の大虐殺に手を染めていくヒットラーなど、クルツ氏そのものだ。
いや、「密林」は、貴族や政治の世界だけの話ではない。自分が東大だの、テレビ局だのの片鱗を垣間見ただけでも、それらは魔境だ。かつて、その旧弊を刷新しようと乗り込んでいったはずのやつらが、そのわけのわからない正体不明の化け物に魂を奪われ、いつの間にか「土人」たちの王となって、むしろ旧弊の権化として支配し、化石になったボロボロの象牙を掘り出して喜んでいる。
そんな特別なところでなくても、地方に行けば、みなマーロウと同じ経験をするだろう。そこには、かつて東京にいた、その改革のためにやってきた、とかいうやり手が、現地の「土人」以上に手を汚している。いや、東京でも同じこと。海外から来たとかいうやつが、もっとも日本的に、ごちゃごちゃと根回し、足回し。
郷に入れば、郷に従え、などと、自覚があるうちは、まだまし。郷の「土人」たちに潰されないためには、余所者は、現地の「土人」以上の「土人」にならないとやっていけない。しかし、だからといって、うまく立ち回り、「土人」たちに祭り上げられて調子に乗っていると、しだいに自分自身が支離滅裂になって、クルツ氏のような狂気に陥る。
物語
2018.12.21
2019.12.17
2020.08.01
2020.12.23
2021.04.17
2021.12.12
2022.12.14
2022.12.28
2023.12.19
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。