/民主主義は、多数決ではなく、少数派にも配慮し、かれらを包含すべきもの。だが、エセ「革新」ソフィストたちは、この規定を逆手に取って、少数派の意見を強烈にアピール。それどころか、少数派以外の人々にまで、古い「偏見」に「反省」と「回心」を迫り、従わない者たちを「虐殺」していく。/
人は自分自身にさえ屁理屈を言って自分をごまかし、その後ろめたさに他人までむりやり同調させようとする。でも、一人になったとき、テレビも消してちょっとぼーっとしたとき、心静かにフロかトイレに入っているとき、布団に入って暗い部屋で天井を見上げるとき、ほんとうの自分の声が聞こえてくる。このままじゃダメだよな、やっぱりずっと一人ぼっちじゃさみしいよな、いまはいいけれど、この先どうなるのだろう、と。
人は理屈で生きているわけじゃない。理不尽でもなんでも、どんな人も、それぞれに育ってきた、懐かしい、自分のくつろげる環境がある。社会も、ある日突然に人工的に創られたのではなく、過去の歴史的ないきさつ、わだかまり、その中での後悔と決意があって、いまがある。理屈はどうあれ、こういうものを引きずって我々は生きている。ああすべきだ、こうすべきだ、と、もっともらしくソフィストたちに言われても、そう簡単に自分自身の生きてきた足下を切り捨てることなどできない。いや、切り捨ててしまったら、もう自分自身でいることすらできなくなってしまう。
理屈では、どんな尺度でもいいかもしれない。だが、自分が自分である限り、自分であることの証としての自分の絶対尺度がある。たとえそれで自分が犠牲になったり、損をしたりするとしても、自分が自分であるために守り通すべき尺度がある。それを自分勝手な屁理屈で、それどころか他人の自分勝手な屁理屈で曲げたりたら、そんな自分はもうほんとうの自分ではいられなくなる。
自分自身の心の中の声は、恐ろしい。なんでもお見通しだ。自分自身から自分自身を隠しごまかすことなどできないのだ。だから、うしろめたい人々は、せめて自分の心の声を聞くまいと、パチンコ屋だの、クラブだの、都会の喧噪で耳を塞ぎ、まやかしの娯楽にうつつを抜かす。もしくは、詭弁をまき散らすドミナント・マイノリティのソフィストの御講演にうなずき、そのデモに一緒に参加して、他人の作ったシュプレッヒコールを大声で連呼し、先進的な理解者を気取る。だが、それは、自分自身の心の声から耳を塞いでいるだけ。
だが、そんなことをしたって、絶対に自分自身からは逃げられない。勝ちか負けか、損か得か、多数か少数か。そんなことは、関係ない。これまできみ自身が生きてきたところ、そして、きみ、きみの家族、きみの地域に思うところ。それがどうあってほしいかを真剣に考えるとき、いま一時の屁理屈とほんとうにつながっているのか、疑わざるをえない。そして、その疑いこそが、哲学だ。
哲学
2012.01.16
2017.04.25
2017.05.09
2017.05.16
2017.05.23
2017.05.30
2017.06.06
2017.06.13
2017.06.28
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。