自由は君の手の中にある

画像: photo AC: AKIZOU さん

2017.04.25

ライフ・ソーシャル

自由は君の手の中にある

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/世界は、必然性に縛られている。それは、ちょっとやそっとの違いなど、無かったことにしてしまうほど強固だ。だが、毎日、のしかかってくる重力に負けず、必然性を追い越すなら、そこにきみの自由が開ける。そして、ここできみがどうするか次第で、きみは、世界の必然性の流れを変えることができる。/

蝶の羽ばたきだけで、世界は一変する、と、頭でっかちが言う。だが、それは、まったくのウソだ。現実の必然性の濁流は、すべてを飲み込んでしまう。川の水路で無理やりねじ曲げてみたところで、結局は、もとどおりの海に流れ込むだけ。作り話でならなんとでも作れるが、実際は、玄関を右足から出ようと、左足から出ようと、そんなことは、今日一日、それどころか、家のすぐ先の角を曲がるまでにすら、まったく影響を残さない。


我々は、運命に縛られている。すでに過去によって、なにもかもが決められてしまっている。それを変えようとあがいてみても、そんなことくらいでは、なにも変わらない。必然性の濁流においては、すぐにすべて無かったことにされてしまう。会社のためにかんばろうと、かんばるまいと、結局のところ、結果は大差無い。きみのがんばりの有無とはまったく別の理由で、ある日突然、会社が潰れてしまったりするのが現実。

あれこれじたばたしたところで、なるようにしかならない。では、そのなるようなところ、必然的なファイナル・ディスティネイション(最終目的地)「ディケ―」は何か。数学者として知られる紀元前550年頃のピュタゴラスは、世界は本来は《調和》で均衡静止する、と考えた。しかし、彼によれば、この現実は実際にはいろいろ汚れており、そのせいで、それぞれの罪への罰という反動が巻き起こることによって、毎度、その最終的な調和から外れ続けてしまう、という。

紀元前500年頃のヘラクレイトスになると、むしろ弦のように、永遠に反転し動揺し続けること、「万物は流転す」こそが、力動的な《調和》なのだ、と言い出した。さらに、紀元前475年頃のパルメニデスは、そのように完結している世界は、「存在の球」であり、その中心であるいまここの《現在》こそが、その世界全体のディケ―の結果であり、また、原因である、と説いた。つまり、砂時計のように、世界のすべての因果は、いまここに焦点を結ぶとともに、いまここで反転して、いまこここそが、世界のすべての原因になっている、という。

ところで、放物線飛行というものがある。宇宙の無重力を体験する方法だ。モノが自由落下しているとき、重力の影響がまるごと運動に解放されており、したがって、逆になんの重力もかかっていない無重力になる。上へ向けてボールを投げ上げたときも、見た目では上昇だが、「自由落下」。だから、飛行機を放物線の軌道に乗せて打ち上げて、なるがままにすれば、その頂点前後において無重力を実現できる。しかし、これも、じつはそう簡単ではない。左右対称である放物線の軌道に乗せるには、その高さに自由落下してくるときと同じくらいまで急加速して急上昇しないとならないからだ。つまり、この時点では、およそ2G、つまり、二倍の重力がかかる。

世界の必然性も同じこと。我々は毎日、必然性に追いかけられ続けている。そこには、自分の自由の余地などない。だが、自分自身が急加速し急上昇して必然性と一体化し、それを追い越すなら、過去と未来が反転する現在において、我々は、つかの間だけながら、自分の自由を得ることができる。

もっとも、こうして自由を手にできるのは、二倍の重力、二倍の必然性を乗り越えで急加速し急上昇する者だけ。我々は、人が無重力の自由を満喫しているの見るとすぐにうらやむが、それは、その前を知らないだけ。東大に入るやつは、人の倍、勉強したから。売れている芸人は、人の倍、下積みで苦労したから。必然性が支配するこの世界で、この世界を追い越し、自分の自由を手に入れるためには、相応の代償が必要なのだ。

おまけに、こうして自由を手にしても、それは長続きしない。必然性は、ふたたびその重力で、人を引きずり落とし、そのたいていの物事も、ほんの迷いとして飲み込んで、無かったことにしてしまう。歴史においても、世界の頂点に飛び出し、我が世の春を一時は謳歌したものの、その後、すぐに消え去った、それどころか奈落の底の底まで落ちていった者は数多い。それほどまでに、必然性の重力は強い。

だが、過去と未来が反転する放物線の頂点の自由な現在においては、過去はこの現実となって、それでその結果を出し切り終えている。だから、このいまここから、どう次の結果へと反転させるかについては、この一瞬の、この一点だけは、いかなる必然性も、もう免れている。とはいえ、きみは、そこに留まることはできない。きみは、落ちる。それが世界を支配する必然性というもの。だが、必然性を追い越したこの頂点の一瞬においてならば、きみは自分でどちら側に落ちるか、選ぶことができる。また、まっすぐ直降下するか、それとも、グライダーのようにゆっくりと滑空するか、きみの自由にできる。

自由とは、自分が理由になること。たしかに、結果は結果、現実は現実だ。これについては、すでにすべて必然性に支配されてしまっており、もはや自分でどうできるものではない。だが、毎日、のしかかってくる重力に負けず、必然性を追い越すなら、そこにきみの自由が開ける。そして、ここできみがどうするか次第で、それから先の未来の世界の必然性が尽きること無く展開して行く。つまり、きみは必然性の頂点に上ることで、世界の必然性の流れを変えることができる。自由は、いまここのきみの手の中にある。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)

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純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学 哲学教授

我、何を為すや。忙しさに追われ、自分を見失いがちな日々の中で、先哲古典の言を踏まえ、仕事の生活とは何か、多面的に考察していく思索集。ビジネスニュースとしてシェアメディア INSIGHT NOW! に連載され、livedoor や goo などからもネット配信された珠玉の哲学エッセイを一冊に凝縮。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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