/我々は目ではなく心でモノ見る。実物なんか、さっぱり見ていない、味わっていない。実物は、感覚の生じるきっかけにすぎない。実際は、自分の心の中の記憶を再認識しているだけ。しかし、ニセモノがニセモノとして機能するのは、ホンモノの影だから。逆にニセモノを調べれば、我々が真に求めるべき本当のホンモノを知ることができる。/
写真は、真のままに写す、と思っていると大間違い。ちかごろのカメラは、はるかに優秀だ。見えたように直してくれる。え、見えたように、直す? じつは光学的に写しただけだと、冴えない、写真映えがしないのだ。
うるさい電車の中でも話し相手の声を聞き取れるように、高度に発達した我々の感覚は、必要なものにのみ焦点を絞り、それ以外をノイズとしてうまく感受性をレベルダウンする能力を持っている。視覚に関しても同様で、暗いところでも、ものを見分けられる。それどころか、日常的に、かなり複雑な情報処理をしている。一般に我々は彩度をかなり上げてビビッドに見ている。一方、顔や記号などはコントラストを上げて、色を切り捨て、表情や形態に注目している。
しかし、こういう生活の中での感覚と切り離された写真となると、光学的な記録のままだと、思い出に較べて色がくすんでいるように思える。逆に、ポートレイトなどは、やたら顔色が目立って、どす黒く感じられる。だから、カメラは自動的に、風景については彩度を上げ、顔などに関してはコントラストを強めている。それで、良いカメラだと「きれい」に撮れるのだ。
しかし、もっと面倒なのは、我々は目ではなく心でモノ見る、ということ。空は青、桜はピンク、女性は色白、リンゴは赤、レモンは黄色、というように。これは、文章に多少の誤字脱字があっても読めてしまうのと同じ。光の加減で実際は色がよくわからなくても、それを記憶で補って見てしまう。いや、色だけではない。痴漢の被害に遭った女性は、男の人の関係の無い動きまで、なんでも痴漢に「見える」。梅干しやレモンを見ただけでツバがでるように、レストランのサンプルやメニュー写真がおいしそうなのも、味まで視覚に補完してしまうから。照明や補正によっていつもかっこいいところを見せつけられているタレントも、実際は冴えないおっさん、おばさんであるにもかかわらず、その実物までかっこよく「見える」。
味ですら、そう。インチキな合成肉でさえ、高級ホテルが出せば「おいしい」。有名店の味、あのタレントが褒めた、というだけで、「おいしい」。CMでタレントがグビグビやってるあれを、自分は人より先に買って飲んでいるというのが、とっても「おいしい」。さらには、いかかがわしい宗教家や有名人のクズ本であっても、ほかの信者たちが涙を流して読んでいるとなると、なんだか「ありがたい」。ようするに、我々は、ある意味で、実物なんか、さっぱり見ていない、味わっていない。実物は、感覚の生じるきっかけにすぎない。実際は、自分の心の中の記憶を再認識しているだけ。
哲学
2017.05.09
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2017.07.20
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。