/ウパニシャッド哲学は、世界の転変から解脱しようと、自分を無にすることを考えたが、そのせいで仏陀は死にかかり、ようやく悟った。世界の転変から解脱しようなどいうわがままこそ、苦しみのほんとうの元凶だ、と。そのわがままという縁を切れば、世界は変わらなくても、苦しみは無くなる、と。/
必然性は強い。世界を変えようと、きみがなにかアクションを起こしても、ムリ。ただでさえ、大河に一石を投じても意味がない。小さなことでさえ、きみと考え方が違うのか、それとも、アクションを起こすきみに嫉妬してか、その狭い世界にかならずきみとは反対のアクションを起こすやつもいて、どちらも相殺され、なにもなかったことになり、必然の予定通りになってしまう。
こんな風に永遠に世界に振り回され続けるのは嫌だ、ということで、古代インドのウパニシャッドという秘教は、解脱を考えた。世界は、本来は大きな力、ブラフマン(梵)だが、その波打ち際の潮だまりのようなものとして、世界から切り離されてしまい、世界の波に翻弄されている「我」がある。これが翻弄されるのは、その前の波、つまり前世の因業の応報。この悪循環を断ち切るために、ウパニシャッドは、自分を無にする、という極端な方法を試みた。因である自分が無になれば、果も無くなり、自由なブラフマンに回帰できる、というのが理屈。
では、具体的に、なにをするのか、というと、とにかくなにもしない。動かないのはもちろん、食べない。それどころか、息もしない。しかし、荒廃する波乱の時代にあって、当時、こんな自殺のようなことを本気で考えて実行する人々が少なくなかった。仏陀もその一人。それで実際、ほとんど死の寸前まで突き進んだ。けれども、仏陀は死にかかってようやくわかった。解脱したいなどという考えの方が、まさに煩悩。それこそが自分を苦しめる元凶。
彼は自分の考えを、四法印の教義にまとめた。すなわち、諸行無常、すべての物事は転変する。諸法無我、その転変に我が関わる余地は無い。一切行苦、だから、我は転変から引き剥がされて苦しむ。涅槃寂静、しかし転変に我が関わろうとしなければ引き剥がされもせず、平安を得られる。
この発想の転換の根本は、彼の因縁論だ。ウパニシャッドを初めとして、我々は原因をどうにかしようとする。だが、世界の転変ともなると、その必然性は、人の力で留めたり、変えたりできるようなものではない。そんな巨大な世界の動勢に抗えば、ただその転変に押しつぶされるだけ。
仏陀の独創的なのは、この因が本当の因ではない、というところ。問題は、世界の転変ではない。世界の転変をどうにかしようなどという自分の煩悩こそが因。そして、どうにかしないといけないのは、因ではなく、果だけ。たしかに因は、もはや人の力の及ばない。だが、因があっても、果が生じるとはかぎらない。因から果が生じるには、条件、縁が揃い整わないといけない。逆に言うと、因をほったらかしておいても、縁の方さえ絶ち切ってしまえば、果は生じない。
純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学 哲学教授
我、何を為すや。忙しさに追われ、自分を見失いがちな日々の中で、先哲古典の言を踏まえ、仕事の生活とは何か、多面的に考察していく思索集。ビジネスニュースとしてシェアメディア INSIGHT NOW! に連載され、livedoor や goo などからもネット配信された珠玉の哲学エッセイを一冊に凝縮。
哲学
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2017.06.13
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。