14歳から大人まで 生きることの根っこをかんがえる『ふだんの哲学』シリーズ 〈第3章|価値〉第5話
「どんなファッションをおしゃれと感じるか」「どんな顔がきれいか」ほど、人によって答えがちがうものはないかもしれません。ある人が「あの服装、センスいいね」と感じても、別の人は「えー、全然そう思わないけど」という場合はよくあります。また、ある人が「あの男優はハンサムね」と言っても、別の人は「あの男優のどこがハンサムなの?」と返す場合もよく起こります。
その他たとえば、「どんな自動車がカッコイイか」「どんな音楽が素敵か」なども意見が分かれるものです。ある人がほれぼれするようなロックギターの音色は、ある人にとっては耳ざわりな雑音にしか聞こえません。これらのことは、自分には自分の美しいがあり、他人には他人の美しいがあることを示しています。つまり「人が個別に感じる美」です。
ところが、多くの人が共通して美しいなと言う「みなが感じる美」のようなものもあります。たとえば、白い雪をいただいた雄大な富士山、青く透明に輝く海、夜空に打ち上がる花火など。これらのものを美しくないという人はいないでしょう。そこには普遍的な美があります。
人間は「美しい」を目で感じたり、耳で感じたり、心で感じたり、また頭で思ったりします。その意味で、人間はからだ全体が「美の受信機」になっています。ただ、その受信能力は人それぞれです。ものごとに接して、そこからなにか「美の波長」のようなものを受信する感度、受信する傾向性(クセと言ってもいいでしょう)は一人一人ちがっているのです。
翔太が見せたサッカー選手のファッションが翔太には美しく見えて、玲子には美しく見えないことが起こるのはなぜでしょう。その理由は、そのファッションの発する「美の波長」が、翔太の「美の受信機」にはピーンと合うけれど、玲子の「美の受信機」には合わないからです。
その一方で、白い雪をいただく雄大な富士山が発する「美の波長」は、だれの受信機にも容易に合うので、だれもが美しいと感じるわけです。
わたしたちは「美しい」の奥に、なにか良いこと、すぐれていること、善いこと、生きる力の根源に近いことを感じとっていると前回触れました。ものごとがどういう具合に、良いか、すぐれているか、善いか、生きる根源に近いかによって、そのものごとが発する「美の波長」は変わってきます。
雄大な富士山の景色は、とても強く、わかりやすく「良いこと」「生きる力の根源に近いこと」に通じているので、その「美の波長」は広く受信されやすいのです。ところが、流行ファッションのように先鋭化してどんどん変わっていくものは、それがどれくらい良いのか、ほんとうに良いのかがわかりにくい。そのためにその「美の波長」はだれもが受け取るものではなくなってきます。ですからファッションについては、人によって「美しい」がばらばらになりやすいと考えられます。
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キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。