14歳から大人まで 生きることの根っこをかんがえる『ふだんの哲学』シリーズ 〈第8章|幸福〉第1話
〈じっと考えてみよう〉
高校2年になった瑞季(みずき)は、はやくに父を病気で亡くし、以来、母と妹と3人暮らしだ。母は生活を支えるため仕事に忙しい。母とはいっしょに遊んでもらったことも、ましてや家族旅行などにも連れて行ってもらったこともない。が、明るく気丈にふるまっている母の姿には感謝をしている。瑞季も勉強と部活の合間にアルバイトをしている。大学か短期大学に進学するために、少しずつだが貯金をするためだ。
ある土曜の晩、母は瑞季にある誘いをした───
「明日の昼に、盲学校で朗読会のボランティアがあるんだけど、いっしょに行かない? 生徒さんたちに本を読んであげる会よ」。
「えー、なんでわたしたちがボランティア? うちこそお金なくて助けがほしいくらいなのに。そういうのって幸せで余裕がある人がやるもんじゃないの」……。瑞季はバイトの疲れや勉強の悩みもあって、つい、とがった言葉で返してしまった。とても行く気になれなかった。
翌日、朗読会から帰宅した母は、とてもすがすがしい様子だった。「健康で生きていられるって、それだけですばらしいことね」とひとこと放ち、さっそうと台所に立った。
□「幸せだから、人助けができる」のだろうか、それとも、「人助けするから、幸せ」なのだろうか?
フランスの哲学者アランが『幸福論』(白井健三郎訳、集英社文庫版)で説く幸福は、一貫して行動主義的である。それを表わす有名な一節がこれである。
「幸福だから笑うわけではない。
むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」。
わたしたちのほとんどは、自分がまず幸福という状態にいて、だから笑うんだと思っている。逆に言えば、自分が幸福な状態にいなければ、笑うことはないと思っている。だが、アランはそう考えない。自分がどんな状況にあったとしても、心を起こして、まず笑ってみる。それが幸福なんだ、と。アランはこうも書く───
「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」。
「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。(中略)あらゆる幸福は意志と抑制とによるものである」。
悩みがなにもないことが幸福ではない。竜宮城のような楽園で永遠に暮らすことが幸福ではない。むしろ、自分の置かれた状況が苦しくとも、なにか理想に向かって創造していることじたいが、ほんとうの幸福である。幸福はそのように、静的な状態をいうのではなく、動的な行いそのものであるというのがアランの主張だ。
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キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。