14歳から大人まで 生きることの根っこをかんがえる『ふだんの哲学』シリーズ 〈第5章|人生〉第2話
〈じっと考える材料〉
むかし、甚太郎(じんたろう)という十歳になる少年がいた。甚太郎は近所のお寺でよく一人で遊んだ。ある日、お寺の和尚(おしょう)さんが甚太郎を呼び、こう言った。
「本堂の裏に蔵(くら)があるじゃろ。実はあの蔵の中に代々保管されている宝物がある。その宝物がなにか、蔵に入って見てくるがいい」。
甚太郎は興味津々(きょうみしんしん)で蔵に入っていった。蔵には窓が一つもなく、なかは昼間でも真っ暗でなにも見えない。しかし、目の前に「なにか」があることは気配でわかる。ただ具体的になんであるかは見当がつかない。そのとき、甚太郎の足裏に小枝のような木片が触れたので、彼はそれを拾い上げ、目の前の「なにか」をたたいてみた。
チン、チン・・・ カラン、カラン・・・
甚太郎は蔵のなかから出てきて本堂に戻り、こう告げた。
「なんだ和尚さん、あれは『鍋(なべ)』か『やかん』ですね」。
和尚さんは「そうか、鍋・やかんだったか。はっはっはっ」と空に向かって笑い声をとばし、去っていった。
───歳月は流れ、甚太郎はじゅうぶんな大人になっていた。生まれ故郷を離れて仕事を持ち、結婚をし、父親になっていた。が、都での仕事がつまずき、追われるように、きょうこの町にもどってきた。ここで再出発をするつもりだ。甚太郎は何十年ぶりにお寺に行ってみた。変わらぬ境内には、変わらぬ姿で和尚さんがいた。甚太郎を見つけこう言った。
「蔵のなかの宝がなにか、また見てくるがいい」。
甚太郎は、蔵のなかに入っていった。あのときと同じように、足裏に触れた木片を拾い上げ、目の前に感じる「なにか」をたたいてみた。
チン、チン・・・ カラン、カラン・・・
「やっぱり鍋かやかんか。でも、和尚さんが宝物というんだからなにかあるのだろう」と思いながら、甚太郎はさらにしゃがみこんで、足元のまわりを手で探ってみる。クモの巣やらほこりやらをかぶりながら、頭をどこかにぶつけながら、はいつくばって手を伸ばしていくと、重い丸太のようなものが手に触れた。その丸太を持ち上げ、甚太郎は目の前の「何か」を力いっぱいたたいてみた。
ゴォーーーーン。
甚太郎は走って本堂に戻り、顔を赤らめてこう言った。
「和尚さん、あれは大きな鐘(かね)だったんですね。あんなにふかい鐘の音は聞いたことがありません」と。
生きることは、ほんとうに複雑で奥深い活動です。わたしたちは、生きているあいだに無限に成長が可能ですし、そこから無尽蔵(むじんぞう)に喜びや感動を引き出すことができます。けれどその一方で、停滞や漂流もあるし、悩みや苦しみもたくさん湧き起こってきます。
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キャリア・ポートレート コンサルティング 代表
人財教育コンサルタント・概念工作家。 『プロフェッショナルシップ研修』(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)はじめ「コンセプチュアル思考研修」、管理職研修、キャリア開発研修などのジャンルで企業内研修を行なう。「働くこと・仕事」の本質をつかむ哲学的なアプローチを志向している。