/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/
しかし、混迷するアッバース帝国の首都バグダード市においては、アル・ファーラービ(c872~c950)が哲学の研究と教育に当たり、アリストテレスに次ぐ「第二の師」と呼ばれました。彼は、イスラム圏にいたキリスト教ネストリウス派の聖職者からギリシア語で古代ギリシア哲学を学び、アリストテレスの形而上学や論理学、認識論、倫理学、そして政治学を、統一的に紹介。もっとも、そのせいで、そこには新プラトン主義の影響も入り込んでいます。また、彼は、哲学の実践を強く説いていますが、不安定な時代にあって、宗教や政治の活動からは距離を置いていました。
J 崩れゆく帝国の最後の知の繋ぎ手というような人ですね。
ヨーロッパでは、932年、奸婦マロツィアがイタリア王ウーゴとサンタンジェロ城で再婚。ところが、実の息子、スポレート公アルベリーコ二世(c912~プ32~54)がこの結婚式を襲撃して、政権を奪取。かつてのローマ皇帝と同じ「プリンケプス」として、傀儡教皇たちを使って、イタリアだけでなく、ヨーロッパ各地のクリュニー系教皇領を支配。さらに、従来の修道院の院長を地元領主の親族から教皇の直接指名の聖職者にすげ替える叙任権闘争によって、勢力を拡大していきます。一方、東フランク王国でも、936年、ハインリッヒ一世が没すると、オットー一世(912~王36~帝62~73)が、ゲルマン人の分割相続の慣習を破って単独で継承し、カール大帝をまねてアーヘン大聖堂で東フランク王として戴冠。おりしもエディルドを亡くしたパリ伯ユーグは、オットー一世の妹、ハトヴッヒと再婚し、さらに両国の結束を強めます。
J フランク族支配が衰退して、ドイツとイタリアで、次の主導権争いですか。どちらも、長年のゲルマン人の分割相続で細切れになってしまった領土をかき集め始めたのですね。
イスラム圏でも、もはやアッバース帝国に勢いはなく、エジプトのシーア派ファーティマ朝と争っている隙に、イラン高原の方のシーア派ブワイフ朝が中央の肥沃なバビロニアへ進出。946年には首都バグダード市も奪って、大総督(アミール)として政治の実権を握ってしまいます。とはいえ、シーア派に対しては大多数を占めるスンニ派の反発も強いことから、各地の傭兵軍人たちに、俸給ではなく、支配域徴税権、イクターを与えて、帝国を分割統治に転換。一方、西のシーア派ファーティマ朝は、海軍力を増強して、地中海支配を拡大。もはやエジプトのイフシード朝も射程に入れ、同じシーア派の東のブワイフ朝との対決は必至となっていきます。
歴史
2021.09.09
2021.09.09
2021.09.26
2022.01.14
2022.01.21
2022.06.19
2022.07.03
2022.07.16
2022.07.21
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。