中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

画像: 神聖ローマ皇帝オットー一世の使節を受け入れるコルドバ市ザフラー宮殿のアブド・アッラフマーン三世

2022.01.21

ライフ・ソーシャル

中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/

また、同じスーフィズムでも、イランのジュナイド(?~910)は、陶酔の先の自己の再発見、覚醒(サフウ)を重視し、むしろ保守的に生活法(シャリーア)を遵守してこそ、真の自己滅却、イスラーム(帰依)が達成される、としました。彼の思想を継ぐ一派は、その後、覚醒(サフウ)スーフィズムとなっていきます。

J つまり、九世紀後半のアッバース帝国は、辺境の総督(アミール)たちが独立してしまうだけでなく、内部でも西のアラビアではシーア派、東のイランではスーフィズムが流行して求心力を失っていったわけですね。でも、中央のバビロニアのスンニ派はどうなっていたのですか?

もちろん、かなりまずい状況です。アッバース帝国の衰退ともに、大衆庶民の「伝承の徒」が、自分たちこそが合意(イジュマー)を決められる、と主張して騒ぎ出していました。これに対し、合意を四法源の一つに入れてしまった知識人(ウラマー)のシャフィイー学派からペルシア(イラン)出身のタバリー(839~923)が独立して、法は厳密な歴史学と文法学によって決められられなければならない、とし、史料と分析に基づいて『諸使徒と諸王の歴史』と『クルアーン注釈』をまとめます。

J なんかすごい堅物みたいですね。

いや、タバリーは、とにかく博覧強記で、生まれのペルシア文化はもちろん、アラビア文化、エジプト文化までくわしく、信仰と教育にも熱心、上品でユーモアに溢れ、カネや名誉、地位には関心が無かった。だから、それまで騒いでいた大衆庶民も、彼を尊敬し、彼が言うなら、と従った。しかし、矛盾した諸説でも取り込む懐の深さや、まちがいをまちがいとはっきり言う性格が災いし、当時の知識人(ウラマー)たちからは敵視され、公職には就けなかった。

このころ、もうひとり、理系でも博覧強記の天才、アル・ラーズィー(ラーゼス、865~925)が活躍します。彼もまたペルシアの出ですが、アッバース帝国のカリフの求めに応じて首都バグダッド市にイスラム最大のムダディッド病院を建て、患者の治療と医師の養成に努めます。しかし、彼の知見は、精神科や小児科にまで拡げられた臨床医学に留まるものではなく、天然痘などの感染の病理学、薬学や化学、さらには形而上学まで広範囲に及び、自身の視力を失っても研究と教育に邁進。ただ、彼は啓示宗教には懐疑で、むしろ人間は神から真理を発見する理性を与えられている、と考えていました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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