/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/
また、ローマのマロツィアも、ポルノクラシー、娼婦政治と揶揄されながらも、スポレート公の妻として、また、諸教皇の愛人や母親として、イタリアと全ヨーロッパのクリュニー系教皇領を支配。アグラブ朝に代わってイタリアに侵攻してきたエジプトのファーティマ朝に対し、915年、ローマ市とナポリ市の間、モンテカッシノのすぐ南のガリリャーノ川の戦いで、教皇諸侯連合軍を組んで、これを撃退。
エルベ河中流にあって、ノルマン人だけでなく、西進してきたマジャール(ハンガリー)人やスラブ人にも侵略に苦しんでいたザクセン公ハインリッヒ一世(876~王919~36)は、独自に戦って勢力を増大。むしろドイツ中央の東フランク王、西南のロートリンゲン公、南のシュヴァーベン公、東南のバイエルン公も実力で屈服させ、919年、みずから新たなザクセン朝の東フランク王として就きます。
J 乱世は権威より実力ですよね。
921年、シャルル三世はハインリヒ一世とボン条約で王位の相互承認したものの、諸侯に疎まれて廃位。ウードの甥、パリ伯ユーグ(c898~フランス公36~56)は、東フランク王ハインリッヒ一世に臣従し、また、26年には、イングランド長兄王エドワードの娘、エディルドと結婚して、カロリング家西フランク王に対抗。ハインリッヒ一世も、長男オットー一世(912~王36~帝62~73)を、29年、同じイングランド長兄王エドワードの娘、エドギダと結婚させます。
J 各地のクリュニー系教皇領に加えて、イングランド王、パリ伯、東フランク王ザクセン公が婚姻外交を結び、イスラム人やノルマン人などの外敵に備えつつ、フランク族支配を封じ込めたということですね。
アッバース帝国も、その独占支配が終わりつつありました。929年、イベリア半島を再統一した後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン三世が、衰退するアッバース帝国やシーア派ファーティマ朝の「カリフ」に対抗して、みずから「カリフ」を名乗り、イスラム世界の次の指導者となることを表明。一方、アッバース帝国では、西のチュニジアのシーア・イスマーイール派ファーティマ朝だけでなく、東のイランでも、932年、シーア・十二イマーム派の地元イラン人アルダウラ(c891~949)がブワイフ朝を興し、支配に抵抗します。帝国は、対ファーティマ朝として、エジプトに中央アジア・テュルク人奴隷傭兵(マムルーク)のトゥグジュ(882~946)を送り込みましたが、935年、かってに独立してイフシード朝となってしまいました。
歴史
2021.09.09
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2022.07.21
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。