中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

画像: 神聖ローマ皇帝オットー一世の使節を受け入れるコルドバ市ザフラー宮殿のアブド・アッラフマーン三世

2022.01.21

ライフ・ソーシャル

中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/


13.2.3. 政権交代と文化振興(十世紀後半)

このころ、ビザンティン(東ローマ)帝国も、すっかり勢いを失い、暴虐なテュルク系遊牧民のブルガリア王を「皇帝」とし、政権も宦官や軍人に乗っ取られる体たらくでした。ところが、民衆の支持で、文人皇子コンスタンティノス七世(905~皇帝45~59)が皇帝となると、彼は、次の時代を担う北のノルマン人キエフ大公国や、西のドイツ王のオットー一世、後ウマイヤ朝カリフのアブド・アッラフマーン三世と結ぶ巧妙な外交政策によって、安定を回復させます。もっとも、彼自身は教養人で、宮廷に学者たちを集めて古典文化の復興に努め、後に「マケドニア朝・ルネサンス」と呼ばれることになります。

J 力よりも外交と文化ですか。

ところで、イタリア王位は、名ばかりながら、中フランク王国の名残りのブルグント(南仏)王のものでした。ところが、スポレート公アルベリーコ二世のように傀儡教皇を立てることでヨーロッパ各地に広がるクリュニー系教皇領を支配できるとなると、イタリア王の肩書は、俄然、大きな意味を持つようになります。それで、950年、隣のイヴレーア(トリノ)辺境伯がブルグンド王を暗殺、息子を未亡人王妃アーデルハイトと結婚させることで王位奪取を図ります。アーデルハイトは、東フランク王オットー一世に救援を求め、辺境伯親子を追放し、オットー一世と結婚。これによって、オットー一世は、イタリア王位を得て、ローマ市での戴冠を試みますが、これをプリンペプスのアルベリーコ二世がこれを阻止。

しかし、54年、アルベリーコ二世が急死。18歳の息子が教皇ヨハネス十二世(937~教皇55~64)となって、権力を継承。しかし、無謀な勢力拡大に走り、イヴレーア(トリノ)辺境伯領に攻め込んで、逆に教皇領に攻め込まれ、東フランク王オットー一世をローマ市に迎え入れて、かろうじて防戦。その見返りとして、962年、オットー一世を「ローマ皇帝」として戴冠せざるえなくなります。すると今度はイヴレーア辺境伯と謀って皇帝の追い落としを企て、これが露呈して、翌63年、廃位追放。代えて、皇帝は傀儡教皇を置きます。

J フランク族支配の後の、イタリアとドイツの主導権争いに、これで決着がついたのかな?

イスラム世界も、もはやアッバース帝国の次の勢力が台頭しつつありました。961年、イベリア半島を再統一してイスラムの「カリフ」を名乗った後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン三世が没すると、その子アルハカム二世(915~カリフ61~76)もまた「カリフ」を宣言。ただし、教養人の彼は、政治や軍事は宰相や将軍に任せきりで、みずからは文化振興でイスラムの、それどころか地中海世界の中心となることをめざします。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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