中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

画像: 神聖ローマ皇帝オットー一世の使節を受け入れるコルドバ市ザフラー宮殿のアブド・アッラフマーン三世

2022.01.21

ライフ・ソーシャル

中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/

彼は、各地に学校を建て、多くの学者を集めるとともに、首都コルドバ市の中央寺院に世界最古の大学を設け、四十万冊もの蔵書を誇る図書館を建てます。かくして、後ウマイヤ朝では、ほとんどすべての国民が読み書きができ、北アフリカや中東のイスラム教圏はもちろん、ヨーロッパのキリスト教圏からも多くの学生が集まりました。

J ビザンティン帝国と同様、文化振興で世界の中心になる、ですか。

同じくイスラム世界で「カリフ」を称するチュニジアのシーア派ファーティマ朝は、すでに支配力を失っていた東ローマ帝国領のシチリア島へ進出。これとともに、ファーティマ朝と交易する自治都市アマルフィ公国がイタリア半島南部へ拡大。また、ヴェネツィア共和国も、ビザンティン帝国の保護下にありながら、ファーティマ朝との交易で隆盛していきます。

一方、このころ、アッバース朝カリフは、もう大軍事総督(アミール)ブワイフ朝の傀儡で、ブワイフ家からもらう日銭で、かろうじて宮廷を維持。首都バグダード市は、経済が停滞し、物資が不足し、土地や家財を売っても食料が手に入らないような状況。これに乗じて、ビザンティン帝国は、61年、クレタ島を奪還。さらに、968年には重装騎兵軍団でアンティオキア市まで再征服。

J ビザンティン帝国は、西でシチリア島やイタリア半島南部を失いながら、東でクレタ島やアンティオキアを取ったとなると、一進一退かな。

でも、その東方回復領も、すぐ新たな敵に脅かされることになります。すなわち、969年には、ファーティマ朝がエジプトのイフシード朝を滅ぼして、地中海東岸、アラビア半島西部へも進出。これとともに、ビザンティン帝国のマケドニア朝ルネサンスや後ウマイヤ朝のコルドバ大学に対抗して、新首都カイロ市にアズハル(光輝)大学を建てます。ここでは、シーア派としてのイスラムの神学や法学を中心としながらも、エジプトの遺産であるヘレニズム文化も積極的に採り入れ、プラトンやアリストテレスの研究がさかんに行われました。

でも、クレタ島奪還やアンティオキア再征服を果たした将軍皇帝ニケフォロス二世(913~皇帝63~69)は、ファーティマ朝より、まず、かってにローマ皇帝となったオットー一世に異を唱え、両者は南イタリア東岸で会戦。しかし、皇后の愛人将軍ヨハネス一世(925~皇帝69~76)が彼を暗殺。72年、神聖ローマ帝子オットー二世(955~皇帝73~83)とビザンティン帝女テオファヌが結婚することで、両国は和解。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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