中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

画像: 神聖ローマ皇帝オットー一世の使節を受け入れるコルドバ市ザフラー宮殿のアブド・アッラフマーン三世

2022.01.21

ライフ・ソーシャル

中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/

J どちらも、いかにもアッバース帝国文化の最後の爛熟大成という印象の、知の巨人ですね。ただ、二人ともペルシア出身というのがおもしろいな。シルクロードの中心にあって、やはりそこに東西文化の粋が集結していたのかな。

一方、ヨーロッパは、ノルマン族やイスラム人という外敵の登場にもかかわらず、モラルは緩み、内輪もめを重ねていました。ビザンティン帝国では、皇帝の叔父の神父アサナシオス(c920~c1000)が尊敬を集めていましたが、教会のあまりの堕落に嫌気をさして、すでに多くの修道士たちが隠遁していたエーゲ海北、カルキディケ半島のアトス山に移ってしまいます。おりしも、862年、スラブ人を征服したノルマン人ルス族が内陸部に新都という意味のノヴゴロド王国を建て、ビザンティン帝国との交流・交戦の都合で、さらにキエフ市に南下。これに対して、アサナシオスは、アトス山の修道士たちを組織し、修道院を建設して、これに抵抗。

イタリア半島でも、中部イタリア東側のスポレート公国がアグラブ朝を撃退し、西側の教会領をも実質的に支配。また、イングランドでは、アルフレッド大王(849~王81~99)が活躍し、ノルマン族の侵略を防いで、むしろアングロサクソン人を統一、興廃した国土の復興に努めました。彼はまた、宮廷学校を建てて、ボエティウスやアウグスティヌスなどのラテン語古典の翻訳、史書や法典の編纂も行っています。

フランク王国は、あいかわらず兄弟親族で領土争いを続け、870年、中フランク王国の相続に介入して、ロタリンギア、つまり、マース河とライン河の間を東西フランク王国で分割。その隙に、885年の冬、ノルマン族がパリ市を包囲。しかし、カロリング家でもないパリ伯ウード(c852~王88~98)が西フランク王となって、戦いの先頭に立ち、これをくい止めます。

J ノルマン族やイスラム人に対する反撃が始まったわけですね。

いや、こんどはすぐに反撃の盟主争いが起こってしまうんです。パリ伯ウードに対抗して、スポレート公グイド(855~王88~帝91~94)も、西フランク王を名乗り、これが認められないと、ウード王と戦って、89年、イタリア王、91年には反西フランクの教皇によって、幼い息子のランベルト(c888~帝91~98)とともに西ローマ皇帝になります。ところが、次の教皇フォルモスス(c816~教91~96)は、スポレート公国を抑えようと、96年、ノルマン人やスラブ人を勇猛に撃退している東フランク王アルヌルフ(c850~王87~帝96~99)も西ローマ皇帝に就けてしまいます。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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