『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(1)

2021.09.09

ライフ・ソーシャル

『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(1)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/

 しかし、いずれにせよ、兼好の官僧になる思惑はうまく進まなかった。それどころか、公地公民への復古をもくろむ後醍醐の登場で、寄進荘園そのものが風前の灯火となった。「人間の営みあへる業を見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構を待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること、雪のごとくなるうちに、営み待つこと、はなはだ多し。」という『徒然草』166段も、じつは、若き日に出家して、寄進仲介で功績を挙げ、どこかの官僧となろうとしていた彼自身の話で、人生の残りの少なさを思い、純粋な初心も融け消えてしまっていたことに気づいて嘆くかのようだ。


世情不安と私度僧くずれ

 平安末期から鎌倉にかけて、安元大火(1177)、福原遷都と源平合戦、養和飢饉、元歴大地震(1180~85)と災厄が続く。『方丈記』(1212)や『発心集』『無明抄』で有名な鴨長明(1150~1216)は、京都下鴨神社の祢宜の子で、従五位下。和歌や管弦で名を成すも、実父を失い、親族に疎んじられて神職の道を断たれ、1205年ころに甲賀大岡寺で出家。その後もひたすら財を擦り減らし、東山、大原、ついには山科日野山中で、わずか方丈の居に暮らすことになる。

 そもそも、官寺の仏教というのは、その密教法力で鎮護国家の加持祈祷をすること。具体的には雨乞い、疫病よけ、天災防除、反乱鎮圧、皇子安産、そしてときにはひそかに特定人物の呪詛など。しかし、このように災厄だらけとなると、ろくに教学も修行もしていない俗物貴族の子女官僧という実情もあいまって、密教の法力効能の信頼性が失われる。くわえて、日宋貿易の復活で、中国では土俗呪術的な密教など、とうに廃れ消えてしまっている事実も伝わる。

 このような状況に失望し、延暦寺出の法然(1133~1212、浄土宗開祖)や栄西(1141~1215、臨済宗開祖)、親鸞(1173~1263、浄土真宗開祖)、道元(1200~53、曹洞宗開祖)、日蓮(1222~82、日蓮宗開祖)など、逆にあえて官僧身分を棄て野に下り、新宗派を興す者たちも出てくる。つまり、捨世脱寺の「二重出家」だ。もともと念仏は、延暦寺密教(台密)の開祖、智顗(538~97)の「三大部」の一つ、『摩訶止観』第二巻、三昧修行法の九十日常行三昧を簡略易行化したものであり、彼らの運動は、官寺としておかしくなった日本天台宗の大乗としての証を、鎮護国家から衆生救済に戻す原点復帰でもあった。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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